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[山口二郎コラム]安倍元首相の国葬を考える

登録:2022-09-26 08:24 修正:2022-09-26 08:37
先月31日、東京の国会議事堂の正門前で安倍晋三元首相の国葬に反対する市民たちがデモをしている=東京/ロイター・聯合ニュース

 英国のエリザベス女王が亡くなり、世界が弔意を示した後、日本では9月27日に安倍晋三元首相の国葬が行われる。「本物」の国葬を見た後だけに、安倍元首相に対して国葬を行うことが適切かどうか、ますます多くの日本人が疑問を持つようになっている。9月に入ってからの各種の世論調査によれば、反対論が次第に増えている。毎日新聞が9月17、18日に行った調査では、賛成27%、反対62%となっている。最近の日本では、人びとが政府の行う政策に強い異論を唱えるということは頻繁には起こらなくなった。国葬反対論の増加は、それだけ岸田文雄首相が進める国葬が、憲法と民主主義を壊すと感じる人が大勢いることを意味する。

 私は、若いころは共和制論者で、君主制は平等原則に反するものであり、人間が無知だった時代の遺物だと思っていた。しかし、だんだん年を取ってくると、人間は君主の権威を必要とするのかと思うようになった。先進国の世の中を治める方法は民主主義しかない。国民の意思(実際は多数の意思)によって指導者を決め、ルールを作る。ただ、国民が決めたというだけでは味気ない。つねに世の中のために無私の精神で働く君主の名のもとに、指導者を任命し、ルールを布告することで、みんな何となく、それが世の中のためだと納得する。人間には理屈で割り切れない部分もあるのかと思う。

 無私というのは、世俗の人間にとっては大変な束縛であり重荷である。好き嫌いも簡単には公言できない、喧嘩もできないというのは面白くない人生だろう。だからこそ、指針というものを取り去り、常に明るく微笑みをたたえ、国民の幸福を祈る君主は超越的な人物である。常人の及ばない徳を持っているからこそ、それを尊敬する人が大勢いるのだろう。エリザベス女王が亡くなって、国民をあげて送るのは自然なことだと、異国からも感じた。国葬という儀式は、そのように立場や思想を超えて、誰もが尊敬できる人物を送るためにあることを英国の例を見て痛感した。

 岸田首相が安倍氏の国葬を行うことを決めたのは、聖と俗を取り違えるという致命的な間違いである。安倍氏は俗世界の権力者であった。政治家は国民全体のために働くという建前があるが、あくまで権力者は「私の理想、理念」のために権力を行使する。民主主義においては、複数の政治家がそれぞれ自分の信念を訴えて、支持を競う。それは当然である。しかし、価値観が多様であり、利害対立が存在する現実の世の中においては、権力者の掲げる「私の理想」に対して反対する者がいるのも当然である。古来、徳のある政治家というものは、反対者の存在を前提としつつ、情理を尽くして説得し、賛成者を増やす努力をしてきた。田中角栄元首相は、「親戚が十人いれば、一人くらいは共産党もいる」と口癖のように言っていたと、昔の番記者から聞いた。

 安倍元首相は、情理を尽くした説明とは対極の政治姿勢を持っていた。野党の質問にはまともに答えず、安倍時代の国会は、言論の府ではなくなった。意見を異にするライバルに対する敬意というものを全く持っていなかったと言わざるを得ない。あまつさえ、国有地を友人の経営する学校法人に格安で譲渡したとか、政府主催の桜を見る会を自分の後援会会員のための慰安の機会にしたとか、公私混同の疑惑を次々とつくり出した。

 俗世界の政治家が亡くなれば、俗世界の作法で弔いをすべきである。私的な葬儀の場ならば、非業の死を悼む気持ちを表したい。しかし、国をあげて弔うと言われれば、国民の一人として承服できないと言いたい。権力者の行動は、常に事実に即して検証、追及しなければならない。私には、安倍時代の権力犯罪について知りたいことがたくさんある。非業の死を遂げたからといって、彼が生前に引き起こした問題がすべて消えるわけではない。国民の当然の常識の前に、岸田政権は自ら危機をつくり出している。

//ハンギョレ新聞社

山口二郎|法政大学法学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr)

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1060045.html韓国語記事入力:2022-09-26 02:39

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