先月31日、香港の裁判所は、「扇動的なオンライン・オフラインの表現物」を所持・配布した容疑で、蒋頌生氏(41)に懲役8カ月の刑を宣告した。香港の「刑事罪行条例」第9~11条が規定したこの容疑により有罪判決が下されたのは、英国植民地時代の1967年以来、初めだ。
蒋氏は昨年6月、香港の新界の天水囲地域にある幼稚園の近くで3回、高等裁判所の近くで1回の合計4回、「扇動的な表現物」を貼りつけた。また、扇動的な内容が含まれたオンラインのポスター48枚を「デジタル形式」で所持していた。彼が所持・配布した「扇動的な表現物」は、集会やデモへの参加を促したり、香港国家安全維持法(国安法)を担当する裁判所と警察を批判する内容だ。
1938年に発効した「扇動的な表現物」の所持と配布の容疑が最も広範囲に適用されたのは、1967年の暴動の時だ。現在は香港を代表する不動産財閥のオーナーである李嘉誠氏が運営していた造花工場で、その年の4月に始まった労働争議が、野火のように広がった。当時、中国の文化大革命に鼓舞された香港内の親中派陣営は、手製爆弾まで用い、無差別的な混乱を扇動した。当初は友好的だった世論は、無実の犠牲者が相次ぐと反発し、騒動は年末になって鎮まった。
ジャーナリストのゲリー・チョン氏が書いた『67暴動ー香港の戦後の歴史の分岐点』(Hong Kong's Watershed: The 1967 Riots、2009年)によると、第2次大戦終戦以降で最大規模だと評される当時の騒動により、爆弾攻撃の犠牲者15人を含め合計51人が命を失い、832人が負傷した。年末までに逮捕された4979人のうち1936人が有罪判決を受けた。そのうち209人が扇動的な表現物の所持・配布の容疑だった。
無謀な攻勢に出た親中派陣営は、騒動以降、長い沈黙に入った。暴動の根本的な原因を香港社会の現実に探った植民当局は、改革に乗りだした。1971年、女性・未成年労働者の1週間の最長労働時間が48時間に短縮された。1972年には初等無償教育、1978年には9年間の義務教育制度が導入された。公共賃貸住宅や低所得者への救済事業なども始まった。チョン氏がこの事件を「分岐点」だと述べたのは、このような背景からだ。
2019年6月に始まった送還条例反対デモも「分岐点」だった。長期間に幅広い抵抗を持続させた原動力は、「一国二制度」が作りだした「半分の民主主義」を飛び越えるという香港市民の熱望だった。その年の11月末の区議会選挙で、汎民主派が得た圧倒的な勝利がこれを雄弁に語る。
2019年の結果は1967年とは違った。2020年6月末、国安法が発効した。2021年3月には「愛国者が治める香港」を掲げ、選挙条例が改定された。「香港フリープレス」がまとめた1月の状況は、香港の今を克明に見せてくれる。
昨年6月の蘋果日報、12月の立場新聞に続き、先月2日にはインターネットメディアの衆新聞が廃刊を宣言した。4日には「香港市民支援愛国民主運動連合会」(支連会)の鄒幸トウ副主席(37)が、天安門民主化運動での流血鎮圧の犠牲者の追悼のために毎年行われていた「6・4ろうそく集会」への参加を促した容疑で、懲役15カ月の刑に処された。
昨年2月に国安法違反(体制転覆)などの容疑で大量に起訴された親民主派の政治家と活動家47人のうち30人ほどが収監されて1年となる。当時、一緒に起訴され4カ月後に保釈された青年政治家の鄒家成氏(24)は「国家の安全保障を害しかねない発言」を理由に、先月12日に再拘束された。保釈期間中、送還法反対デモの際の警察の強硬鎮圧を批判する文章をソーシャルメディアに掲載したのが問題となった。
昨年末、6・4(天安門事件)の犠牲者を追悼するための造形作品「恥辱の柱」を突如撤去した香港大学は、先月29日、今度は別のシンボルを遮るために仕切りを設置した。33年前、構内の太古橋近くの道路に書いた後、香港大学の学生たちが毎年6月4日頃、繰り返し書き続けている標語がある。「冷血屠城烈士英魂不朽、誓殲豺狼民主星火不滅」(冷血な虐殺にあっても烈士の魂は永遠であり、悪の終末のための民主主義の花火は不滅だ)。
チョン・インファン|北京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )