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[ハンギョレプリズム] 権利のための闘争/コ・ミョンソプ

原文入力:2010-02-02午後08:13:32(1640字)

コ・ミョンソプ記者

←コ・ミョンソプ書籍・知性チーム長

法社会学の父 ルドルフ・フォン・イェーリング(1818~1892)は、1868年から4年余りオーストリア ウィーン大学教授を務めた。彼の講義はとても人気が高く、毎回数百人が駆せ参じ、受講生の一人だったロシア皇太子はイェーリングを指して「人類に法学の火を持たらしたプロメテウス」と称えたと言う。1872年に大学を去る時、イェーリングが行った告別講演がかの有名な‘権利のための闘争’だ。キム・ジョンホン韓国文化芸術委員会委員長が1年余りの法廷闘争の末に解任無効判決を受け、また解任効力停止決定を引き出し出勤闘争を行う状況でこの文を読みなおしてみれば自ずとうなずける。イェーリングの講演文は140年の時間を跳び越え、まさに大韓民国の今日を目前にして朗読した宣言文のように読まれる。

イェーリングは法学者らしからず初めから最後まで‘闘争’の重要性を強調する。法の目的は平和だが、その平和を得る手段は闘争だ。法は野の植物のように何の苦痛も努力もせずには花が咲かない。正義の女神がなぜ一つの手に秤をもち、他方の手に刀を持っているのか。刀のない秤は無力なためだ。法の生命は闘争だ。イェーリングのモットーは次の一文に要約することができる。"あなたは闘争する中で自らの権利を見つけなければならない。" 権利を守ることは単純に利害関係を争い自分の持分を得ることではない。権利を守るのは侮辱された人格を取り戻すことであり、共同体全体の正義を実現することだ。自身の権利が不法に侵害されているにも関わらず、権利の上に寝ていれば自身の権利だけが侵害されるのではなく同じ状況に置かれた隣人の権利までが侵害される。したがって権利侵害に抵抗することは自分自身に対する義務にとどまらず隣人と共同体に対する義務でもある。そうしてイェーリングの権利闘争は崇高な共同体的使命となる。

日本の政治思想家、丸山真男はイェーリングの命題 "権利の上に寝る人は保護されない" を憲法次元で熟考し、更に一般的な結論を引き出すこともした。"国民は主権者となった。しかし主権者という事実に安住し、その権利の行使をを怠るならば、ある日朝目覚めてみるとすでに主権者ではなくなる、そのような事態が起きるだろう。" 自由も同じだ。丸山は語る。「自由を祝福するのはやさしい。それに比べ自由を擁護するのは難しい。しかし、自由を市民が毎日行使することはより一層難しい。」民主主義は‘自由の実践’,‘主権の実践’を通じることではじめて生きていることになる。民主主義という制度が民主主義的な暮らしを保障しない。自由と同じように民主主義も絶え間ない‘民主主義実践’を通じてかろうじて民主主義でありうる。

キム・ジョンホン委員長が法廷闘争を通じ解任無効判決を引き出し、また行政訴訟を行い解任効力停止決定を受け取ったことは個人の権益を越え、共同体の権益を守る‘権利闘争’の事例であり‘民主主義実践’の生き生きした手本というに値する。キム委員長は文化芸術委員会事務局長が自身の出勤を妨害し事態の原因をキム委員長に回すやすぐに「なぜそんなに度胸がないのか! だからこんなことが起きるんじゃないか!」と叱ったが、ここで言う‘度胸’こそイェーリングが強調した‘不法に対する闘争精神’であろう。イェーリングは自身の講演文をゲーテの<ファウスト>から借りてきた文章で結んだ。"知恵の最後の結論は次のようだ。自由も生命も毎日勝ち取る者だけが享受する。" 戦わずには何も享受することはできない。

コ・ミョンソプ書籍・知性チーム長 michael@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/402447.html 訳J.S