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[寄稿]日本軍兵士の捕虜収容所からの集団脱出と集団の暴走

登録:2021-10-21 23:50 修正:2021-10-22 10:07
カン・ウイル・ペトロ|カトリック司教 
 
集団の構成員の多数がどちらか一方の考えや感情に傾く場合、それに反対する個人の所信を守り抜くのは並大抵の勇気ではない。民主主義は、国民の多数が選択する道に進む。しかし、多数が賛成することは必ずしも正しい道ではない。少数の権利と人権が保護され尊重される社会でこそ、はじめて成熟した民主主義が実現する。
Joewoogy.com//ハンギョレ新聞社

 1944年8月5日、オーストラリアのカウラにある捕虜収容所に収容されていた日本軍兵士1104人が、史上最大の集団脱出を決行した。その過程で234人の日本軍兵士が死亡し、監視していたオーストラリア軍兵士も4人が犠牲となった。オーストラリア軍当局は、日本軍捕虜の集団脱出の理由をまったく理解できなかった。何よりカウラ捕虜収容所は、ジュネーブ条約を忠実に守り、捕虜に寛大な処遇を保証していた。負傷者や栄養失調の兵士には十分な治療と看護が与えられ、収容者全員に十分な食事と日本人が好む魚も支給された。捕虜たちは普段はトマトやブドウなどを栽培し、農作業で1日を過ごし、演劇、野球、相撲、麻雀などの娯楽も許された。彼らが脱出しなければならないほどのいかなる暴力の状況も行為もなかった。脱出に成功したとしても、捕虜収容所が位置したカウラは、シドニーから250キロメートルも西に内陸に入った奥地であり、周辺には身を隠せる場所もなく、すぐに捕まるしかない環境だった。

 にもかかわらず、日本軍捕虜たちは、深夜2時に進軍ラッパの音を合図に一斉に外に飛びだし、鉄条網に毛布を架けて這いあがり、脱出を試みた。警備兵が威嚇射撃を加えたが、彼らは身を隠さず、一部の人々は逆に警備兵に向けて正面から自分の胸を示し、早く撃つよう叫んだ。彼らが持っていた武器は、せいぜい食事用のナイフとフォーク、そしてバット程度だった。オーストラリア軍の機関銃に対抗できる武器は何もなかった。脱出が実行された夜は満月が浮かんでおり、照明がなくても人や物の輪郭がはっきり見えるにもかかわらず、彼らは自らテントに火をつけ、周辺を日中のように明るく照らし、自分たちの姿をそのまま露出させた。日本軍兵士たちは、意図的にオーストラリア警備軍の銃弾の標的になるよう自分たちの体を露出させ、自ら戦死する道を選んだのだ。鉄条網を越えて脱走した者のなかにも、逮捕される前に自決した兵士が多く、残りもわずか8日で全員捕まった。生き延びた生存者は他の収容所に移監され、戦争が終わった後の1946年3月に、日本に全員帰還した。

 いったい、彼らが脱出を敢行した理由は何だったのだろうか。オーストラリア人に自ら死を催促した日本軍人の集団脱出は、本当に理解が困難な特異な集団の暴挙だった。日本国内でもこの事件はほとんど知られていないが、8月にこの事件を題材にしたドキュメンタリー映画『カウラは忘れない』(満田康弘監督)が公開され、はじめて人々の関心を集めた。当時のカウラには定員を超過する捕虜が収容されており、オーストラリア軍当局は、彼らのうちの一部を他の収容所に移監することを決めた。この通報を受け、カウラの日本軍捕虜幹部が集まり、どう対応するかについて意見を交わした。ある捕虜は「九死に一生を得た大切な命なので、なんとか生き延びて帰国し家族に会いたい」と言った。しかし、これに積極的に同調する兵士はおらず、全員が重い沈黙を続けた。

 結局、彼らは、移監を受け入れるかどうかの可否を投票した結果、80%が移監拒否を選択した。移監拒否は蜂起と脱出を意味した。生存者は当時の雰囲気をこのように証言した。「カウラの日本軍兵士たちは、全員が不足のない安穏な収容所生活のなかでも、胸の奥底では常に『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』という軍人意識が響きわたっていた。これは東条英機陸相が下した訓令だった。収容所で捕虜として生きているということ自体が、日本軍人たちには罪悪感となり、胸を押さえつけていた。彼らは、生きて完全な体で祖国に帰れないという強迫観念にとらわれていた。それで、銃に撃たれて死ぬ目的で暴動を起こし、体を隠す建物も何もない収容所の外への脱走を計画した」

 生存者は全員生き延びたい気持ちは強かったが、捕虜の間では、“死ぬための”計画に賛成するしかない、拒否しにくい“雰囲気”が圧倒していたという。大日本帝国が戦争に狂奔していた時代、誰も表現はできないが、胸中ではなんとしても「赤紙」(召集令状)が来ないことを切望していた。しかし、いったん召集令状が到着すれば、町内の人々の前で国家のために命を捧げ滅私奉公すると叫ぶことが慣行だった。そうしなければ、一家が“非国民”になってしまう“雰囲気”が国全体を支配していた。カウラのある生存捕虜は、自分が命を捧げることができず、無事に日本に送還される場合、自分が周囲から受けるであろう非難と、家族がされるであろう村八分に耐える自信がなかったと吐露した。このドキュメンタリー映画の台本を書いた作家の中園ミホ氏は、大学生時代に自分の伯父に連れられカウラに一緒に旅行し、初めて暴動の話を聞いた。この伯父は、戦争が終わった後、数十年が経っても自分がカウラで捕虜として暮らしていたという話を家族の誰にも切り出すことができなかった。姪がドキュメンタリーの台本を書くというと、伯父は次のようにつぶやいたという。「もし、神様が本当にいるなら、空の上から僕らを見て、そんなバカなことをするのはやめなさいと叱りつけてくれないかと…」。大多数の集団の錯覚と誤りは、個人の良心の声をこのように数十年間窒息させた。

 個人または少数が、集団の雰囲気に逆らい自身の所信を貫くことは容易ではない。集団の構成員の多数がどちらか一方の考えや感情に傾く場合、それに反対する個人の所信を守り抜くのは並大抵の勇気ではない。民主主義は、国民の多数が選択する道に進む。しかし、多数が賛成することは必ずしも正しい道ではない。少数の権利と人権が保護され尊重される社会でこそ、はじめて成熟した民主主義が実現する。民主主義の花である選挙シーズンが近づくと、報道機関が様々な報道や世論調査結果を流しだす。大衆の多くが世論の推移に関心を持ち、世論の行方に影響を受ける。しかし、世論は必ずしも客観的で倫理的な価値基準に連動するのでもなく、作動もしない。また、今の時代には、個人的な広報手段が、何の理性的判断や倫理的判断の濾過装置なしに、強い声と主張を世の中に流しこむ。この時代は、乱舞する声と主張のなかで何を選ぶのかについて、私たちに自由を許容するが、判断は各自の責任だ。私たち個人の一人ひとりが、気を引きしめて覚醒していなければならない。風と雰囲気に付和雷同せず、真理と正義の視線で識別し、判断しなければならない。

//ハンギョレ新聞社

カン・ウイル・ペトロ|カトリック司教 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1016133.html韓国語原文入力:2021-10-21 18:49
訳M.S

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