私たちの社会に一つ残念な特徴がある。 私たちは何か‘事件’が起きた時に皆が一緒に義憤を覚えることに長けている。 一定期間、当該事件が明らかにした不条理を変えなければならないと、ほとんど全員皆が声をそろえる。 しかし、興奮が静まるにつれ事件は忘れられ新たな公憤の対象を探す。 そして、報道機関の素質上の問題で事件化されないその無数の社会的暴力に対しては誰も個人的責任を負おうとしない。
私たちは‘個人’というよりは‘戦士’たちだ。 北側の住民たちに‘首領の戦士’になることが強要されるならば、私たちには‘生存戦士’になることが強要されている。 不適応者などを徹底して除去する社会になんとかしてまともに編入するために毎日毎日すさまじい戦いを行わなければならない。
一つ事例を挙げる。 2年前に映画監督チェ・ゴウンは‘餓死’とも言えるむごい死に至った。 正確に言えば甲状腺機能昂進症とすい臓炎を病んだ彼が数日間飢えた状態で普通の治療を受ける金も力もなくて死亡した。 実は "先進国になった" という大韓民国では、金がなくて親戚もいない人々がたびたび餓死している。 しかし学歴とか掲げられるほどの経歴もない長屋の独居老人の餓死はせいぜい地方新聞で短信として処理される事件だが、すでに映画を作った若い高学歴者の死は‘身分’に狂った社会でその‘格’を別にした。 メディアがいっせいに報道し、多くの人々が怒った。 おりしも社会的他殺というその死が、映画界の貧しい多数がどのようにして暮らしているかを見せたと、映画関係者労組が声明書を出しもした。 分かってみれば、製作会社という名前の‘甲’がぎゅっと掌握している映画界では、映画スタッフの月平均所得がわずか52万ウォン(2009年現在)だった。 "韓流映画がアジアを占領する" と保守主義者が快哉を叫ぶが、1960年代末に欧米市場を攻略した韓国製衣類を低賃金でかろうじて暮らす女工たちが作ったように、韓流映画も結局は想像を超越する労働搾取の産物ということは私たちが見たくない不快な真実だ。
生存の恐怖に陥ってひたすら競争で生き残り、一定の社会的地位を取得することだけを夢見る人は社会的不条理を拒否できる自律的個人にはなれない。 しかしまさにこれこそが、この社会の‘主流’が切実に熱望する事項だ。
とにかく、数ヶ月間チェ・ゴウン監督の死は論争の種になり、その影響で芸術家福祉法が作られ最近施行された。 ところがその法から4大保険恩恵が抜け落ち限界が多いうえに映画界の‘乙’ に対する‘甲’の横暴は大きく変わらなかった。 一人暮しの老人が相次いで持病と空腹のために死んでいくが、その中で餓死者が何人になるのか正確な統計さえもない。 2011年に無縁故死亡者が727人に達したが、その内の相当部分は長期にわたってまともに食べることもできなくて死に追いやられたのではなかっただろうか。 しかし競争に中毒した社会は、競争能力のない‘周辺人’に対しては原初的に無関心であり、一時世人の目を引いたチェ・ゴウン事件はもう記憶から消えていく。 そして全く変わらなかった現実に対してはその誰も責任を負おうとしないのだ。
チェ・ゴウンは空腹で死んだが、韓国社会の身分論理上‘知識人’に分類された。 ‘知識人’の死はそれでも少しの間とは言えニュースの種になることができた。 社会の公論の場を‘管理’している高学歴者は、それでも‘同類’の生死には無関心でない。 だが‘男工、女工’の死はこの頃では最初から‘ニュース’として扱われることすらない。 43年前に本物の知識人ハム・ソコンやアン・ビョンムにとってはチョン・テイルの死は彼らの知的な人生を変えるほどの一大‘事件’だった。 その誰も‘正常’とは見られない兵営型独裁国家で生きなければならなかったインテリには、いくら頭が良くても家が貧しくて死んでもインテリにはなれない人々に対する負債意識程度はあった。 今日の大韓民国は新自由主義的世界としては極めて‘正常な’社会なのでそうなのか、既にそのような負債意識さえも消えてしまったような感じだ。
三星(サムスン)の労働者の中では、すでに白血病で死んだ人が56人に達し、少なくとも1人(14年間 防毒マスクや保護具もなしで危険物質を扱って、2011年に死亡したキム・ジンギ氏)の場合には労災死亡という公式判定までも出ているが、これは大多数の言論で‘ニュース’にもなれず‘主流’社会でほとんど議論されない。 幸いにも最近ソウル大の学生たちが "企業殺人" の直接的な責任があると判断されるファン・チャンギュ前三星電子社長の招へい教授任用に反対して‘沈黙のカルテル’に亀裂を起こした。 しかし果たして今日も堂々と強行されていながらよく事件化されない企業の貪欲による殺人を防止するために私たちは何をしているだろうか? 三星電子の製品が如何に多くの‘乙’らの苦痛・疾病・死亡を代価に作られているかを明らかに知っていながら、私たちが数十人の労働者を殺したこの企業に対する不買運動でもちゃんとやってみたか? 死に続けていく人々に対して、私たちは個人責任を果たして感じられているか?
日本の敗戦以後、後に自由主義者らの間で‘思想の王’として通じることになった批評家 丸山眞男は戦時天皇制ファシズム時期の日本を "無責任の体系" と規定した。 すべての人が皆、大家父長である天皇にひたすら忠誠しなければならない、主体性がほとんど欠如した、個人ではない‘構成員’であるだけに、いくらおぞましい悪行を犯しても主体的でない‘システムのねじ’らはこの悪行を‘個人としての私’の責任として受け入れようとしないということだ。 丸山の西欧中心主義的な、自由主義的な限界にもかかわらず、このような分析が戦前日本の重要な側面を暴露したことは間違いない。 ‘家族国家’の枠組みの中では自律的個人が不可能な以上、責任ある個人も当然ない。 ところで‘家族国家’とはすでに縁遠くなった新自由主義時代の大韓民国にしても果たしてどれほど違うのかと思う。 理由は異なるが、私たちの大韓民国にも、自律的個人も責任意識がある個人も殆どいないようだ。
私たちは‘個人’というよりは‘戦士’たちだ。 北側の住民たちに‘首領の戦士’になることが強要されるならば、私たちには‘生存戦士’になることが社会的に強要される。 生き残るために、不適応者などを徹底して除去する社会になんとかしてまともに編入するために毎日毎日すさまじい戦いを行わなければならない。この戦いでは戦友もいない。 ひょっとしてメガスタディという塾財閥の出したこの広告文句を覚えているか: "新学期が始まったので君は友情というもっともらしい名分で友達と付き合う時間が多くなる。 そのたびに君が計画した勉強は毎日毎日後送りされるでしょう。 ところでどうするつもりか? 就学能力試験日は待ってはくれない。 もう動揺してはいけない。 友人は君の勉強の代わりをしてはくれない。" 実はこの単純に見えるテキストは朴正熙時期の "国民総動員" 、 "軍隊に行ってきてこそ男になる" 、"やれば出来る" 、 "豊かに暮らしてみよう" と同じくらい今日の大韓民国の‘国是’をそのままよく表現している。 社会の規律に自身を完ぺきに合わせ、自身の身代金を無条件に高めなければならない私たちの‘生存戦士’らには‘友情’のような概念は許されてはならない。 対他的な‘情’が通じない状況で‘生存戦士’の精神世界を統治するのは落伍の恐怖だ。 ひょっとして誰かが成功して私が押し出されたらどうしようという恐怖感だ。
社会が誘発した生存の恐怖に陥った人々には如何なる対他的責任を感じる余地すら戦時の日本軍人同様にない。 今日は利用価値の高いその誰かに追従できなくて、明日は勉強を台無しにして、あさってはスペックを積み上げることも出来なくなれば‘私’から滅びることになるのに、白血病にかかって死ぬ三星労働者や独居老人、製作会社が死ねとばかりに働かせる映画スタッフを考える余裕などどこにあるだろうか? 実は生存の恐怖という不自然な状態に陥ることになった人々に対して "社会的責任を負え" と要求するということ自体がもしかしたら過度に苛酷なのかも分からない。 生存恐怖症は厳格に‘病理的状況’であるためだ。 社会的に誘発された病理的状況だ。 生存の恐怖に陥って、ひたすら競争で生き残り一定の社会的地位を取得することだけを夢見る人々は、社会的不条理を拒否できる自律的個人にはなりえない。 しかし、まさにこれこそがこの社会の‘主流’が切実に熱望する事項だ。 自律的個人ならば若干でも利潤率を高めるために危険物質を扱う半導体労働者に保護具さえまともに支給してくれない資本システムを受け入れることができない筈だからだ。
私たちの社会は共通の責任意識を共有する自律的な個人たちの連帯だけが生かせるに違いない。 しかし、そのような連帯までの道はまだ遠くて遠い。
パク・ノジャ ノルウェーオスロ大教授・韓国学