私は幼いころ家に転がっていた『朝鮮日報』を読んで漢字の幽玄さを悟った。 思春期には近所の理髪店に散髪に行っては『月刊朝鮮』を何冊かずつ借りてきて通読しながら、世間のことに関する雑駁な知識と俗物的な人生観を得た。 しかし私は朝鮮日報が私の人生に及ぼした影響について、それほど否定的にばかりは考えていない。 地域で新聞を購読している数少ない家だったので、初等学校卒の学歴が全てであった父はその顕著な“情報非対称”の状況を利用して、村の人々の間で政治評論家兼知識人の役割をすることができた。 大人たち数人がマッコリを飲み交わしながら話す周囲で私が肩越しに小耳に挟んだ村の大人たちの熱を帯びた政治討論、例えば「ヨンスェミ(訳注:ヨンサミ--キム・ヨンサム(金泳三))とキム・デジュ(ジュン)(訳注:金大中))の愛憎と対決のドラマはいつも興味津々だったし、私はその熱を帯びた場が朝鮮日報が提供した“アゴラ”の一つの具現だったと考える。
そして30年の歳月が流れた。 私が変わったのか、朝鮮日報が変わったのかは分からないが、その間に私は朝鮮日報を社会的“凶器”と感じるようになった。 ただ、朝鮮日報と関わることがないようにと願うばかりだったが、ついに私にも順番がきてしまった。
去る5月1日付の朝鮮日報は「密陽(ミリャン)送電塔」の事態を大きく報道した。 その記事を読んだ後、私の身体を通っていったしびれるような感じは、以前に朝鮮日報のために生じた苦痛に触れてしまった瞬間的な感電のようなものではなかったかと思う。
その前日、朝鮮日報のクォン・某記者が反対対策委の事務局長である私に電話をかけてきた。 応対する時間もなかったし、そうする必要も感じられなかった私は、最近の詳細な動向と住民たちの立場が整理された報道資料をメールで送った。 しかし翌日の朝鮮日報の記事と社説は、極く少数の賛成派と韓電の立場とで事実上塗りつぶされていた。 私はクォン記者に抗議したが、自分は記事を作成しなかった、こちらの報道資料を整理して上げただけだと答えた。(第1段階:責任逃れ)
その記事のとおりならば、総計1484世帯のうち韓電の13個の補償案を拒否した1813人は“一部の住民”に過ぎず、お年寄りの方たちを助けている神父と私たち活動家は少数の反対派住民と一緒になって事態解決を難しくさせた“変な人たち”だ。 昨年1月自決したイ・チウおじいさんは「自分の農耕地が送電塔から遠く離れているので補償金を受け取れない」と言って籠城し死亡したケースとなる。(第2段階:事実歪曲)
私たちは新古里(シンゴリ)原発3~4号機の電力を建設中の近隣幹線区間と連結して先に流通させることを要求したのだが、記事は“同時停電”で難しいという産業部関係者の的外れな回答を引用して「白紙化同然の主張」と飛躍してしまう。 記事を作成したチョ・某記者に抗議すると「記事縮約段階で発生した脈絡上のミス」だったと言う。(第3段階:ミスにかこつけた飛躍と一般化)
そして社説は住民に向かって「新都市を通過する所でも同意したのだから、電気は公共財という認識を持って解決してほしい」と注文する。 「新都市でも賛成しているのに、田舎者が恐れ多くも?」 このようなニュアンスが敷かれている。(第4段階:訓戒)
また、記事の顕著な偏向性のため、しばしの間言い争いがあった。 その記者の結論は「(だから)私たちが電話したらちゃんと受けて下さいよ」というものだった。 それで、電話にまともに応対しなかった私がその責任を負うことになった。(第5段階:責任転嫁)
朝鮮日報の歪曲報道5段階パターンはこうして完成された。 名不虚伝、その名声には理由があった。
実際に体験してみると、朝鮮日報、本当に何てことはないという気がした。 “凶器”は錆びた“包丁”のようにみすぼらしかった。 毅然として堂々と、きちんきちんと対応すればいいのだ。 錆びた包丁を“凶器”扱いしてやる必要はないのだ。 ただ、電話はきちんと受けることにして・・・。
イ・ゲサム<今日の教育>編集委員