原文入力:2012/09/20 21:56(3384字)
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
朴槿恵を阻止するために、「ムン(文在寅)」を選ぶべきか、「アン(安哲秀)」を選ぶべきかをめぐってあちこちで交わされている熱っぽい議論を聞いていると、とてもいたたまれない気持ちになってしまいます。たとえば、卒業して借金だらけの身になり、専門と関係のないつまらない低賃金(おそらくは非正規)労働をするか「 プータロー」にならざるをえない、貧困層出身の3~4年生の人文系大学生は一体何故にこれら自由主義的なブルジョア候補たちにかくも「片思い」を寄せているのか、そんな思いを振り切ることができません。「ムン」も「アン」も、その学生のために授業料を半額やそれ以上に値下げしたり、人文系にも入りやすい良質の働き口を公共部門に作ったりする確率がゼロに近いにもかかわらず、一体何を思ってそこまで彼らにこだわっているのでしょうか。敢えて歴代のブルジョア自由主義者たちと比べてみても、金大中(キム・デジュン)くらいなら「ムン」や「アン」に比べて、本来の経済観はもとより、(彼の「参与経済論」をご記憶でしょうか。ほとんど社民主義者の水準でした)「人物」からして比較にならないほど異なっていました。金大中を好もうが好むまいが、彼が彼が命をかけて闘争したこと、何度も死に直面したことなどはすべて事実なのです。税務弁護士出身の盧武鉉(ノ・ムヒョン)は金大中とはまったく異なる、遥かに順応的な人生を送ったのですが、とにかく「ムン」や「アン」と違い、労働闘争に少しでも関わっていました。現今のブルジョア自由主義者たちは、労働とはまったく無縁なのです。にもかかわらず、お金も未来もない人々が「ムン」や「アン」に簡単に期待を寄せている理由はとても簡単です。彼らに「ムン」や「アン」より左側にいる人々、すなわち左派はまったく見えないからです。政治的左派は韓国社会では、目立つ力も汎社会的に訴える力なども全然ありません。故に、韓国社会で左派政治をするということは、時にほとんど「シジフォスの労働」のような気がします。やってもやってもどこまでやり続けても、結局は25年前の原点、すなわち様々な「批判的支持論」に舞い戻ってしまうということです。どうしてそうなってしまったのでしょうか。私は大体次のような要因を考えています。
1. 「児童期の必然的な幻想など」。みなさんが小さい頃に思い描いた世界を覚えていらっしゃいますか。自分だけを愛してくれるありがたい両親、悪い泥棒たちを捕まえるために夜も昼も忙しい善良な警察のおじさん、私たちを教えるために時には愛の体罰を惜しまないありがたい先生等々……。警察のおじさんは昇進のために泥棒より公安関係犯罪(?)に遥かに関心が高いかもしれないし、親が子供にそれと無く「出世して将来は私たちを養う」ことを望みながら子育てをしているかもしれないし、上司の圧迫と暴力に疲れた先生が自分も知らないうちに、その腹いせに子供たちに暴力を振るったりするなど、愛の体罰ではなく、気を晴らすために体罰を惜しまないにもかかわらず、このようなことは子供の目にすぐには入らないでしょう。子供は葛藤より「調和」を見たがるものです。それは当然のことですが、大人までそうなったらそれはけっこう大変なことです。そうなったら、葛藤を常に深く抱えている世の中の実体を見逃してしまうからです。ところが私たちの普遍的な世界観はあるいは小学生の世界観と本質的に似ているかもしれません。配当金にしか関心がなく、税金を納めることを最も嫌がり、労働者たちを単なる搾取の対象として捉える三星一家やLG一家の搾取者たちは、大多数の善良な私たちには搾取者ではなく、「我が国の実業界の巨頭」たちではないでしょうか。国家は統制メカニズムであると同時に搾取のための行政的枠組みというより、「我が国」であり、その国家の「発展」のための「構想」はまさに大統領候補に最も聞きたいと思う内容の一つなのです。オオカミと羊が一緒に「共存」しながら「発展」できるわけがないという点に、大韓民国の平均的で普遍的な教育を受けてしまえば気づくのがとても難しくなるのです。
2. 「生活進歩の不足」。進歩政治を愛好なさる皆さん、私たちは一つの真理を肝に銘じなければなりません。一日16時間トッポキを作って売らなければ子供を養えず、自分も食べていけない露天商のおばさんには、「政治言説」の詳細な部分まで関心をもって読む余力はありません。言説がどうであれ、この地獄の中で彼女の人生は働いて洗って寝て、そしてそれの限りない繰り返しです。ほとんど死ぬまでです。彼女がこの地獄を本質的に変える人々に票を投じるためには、この人々は彼女のための奉仕からスタートしなければなりません。たとえば零細自営業者たちをはじめとする住民たちを糾合してトッポッキ販売にまで手を出している大型スーパーの町内進入を必死で阻止したりしなければなりません。このような商店街の進歩、町の進歩、食べていくことにおける進歩がなければ、進歩に票を投じる人々は、結局進歩を考える余裕のあるわずかばかりの人、すなわち高学歴者たちに限られてしまうでしょう。このような余裕は、世界最長労働時間を誇る大韓民国ではほとんど贅沢ですね。つまり、進歩とはある巨視的なことを考えるより前に、真っ先に非正規労働者たちの搾取が存在する職場に駆け付け、組職を作らなければならないし、コンビニなどを回りながらフリーターたちに対する不当労働行為があるかどうかを調査しなければなりません。「平均的な韓国人」とは、結局毎日12~16時間労働で疲れ果て、大型資本、取り締まり当局、それとも雇い主の横暴で気が狂ってしまいそうな零細自営業者や非正規労働者ではないですか。彼らの日常が私たちの政治になりえないかぎり、韓国で左派進歩の政治をすることはまさに「シジフォスの労働」にすぎないでしょう。
3. 「心臓のない社会の心臓」。マルクスは宗教の機能をこう表現しました。魂のない、損得計算があるのみで、利益創出能力のない者はただ凍死し餓死するしかない社会で、弱者が身を寄せる所とは教会だけという意味です。そこで慰めとともに「それでも世の中はすべて神の摂理/因果応報の法則によって動く」と洗脳され、反乱をあきらめるということです。まあ、今日の韓国社会にぴったりと合う絵です。たとえば、20~30代に、入試、大学授業料、暴力が温存されている軍隊、不可能に見える就職、フリーターを踏みにじる雇い主たち、このようなありとあらゆる怪物と闘わなければならない大韓民国のあまりにも大変な若者たちが行ける所とは、実は家族でなければお寺/教会なのです。そのため、進歩左派が多数の信頼を得ようとするならば、この無情な社会の「心臓」の役割をしなければなりません。授業料のために休学して自殺まで真剣に考え、軍隊で暴言と暴力にさらされ今なお悪夢にさいなまれ、コンビニで口頭契約で働き給料もろくに支払ってもらえず ―ドストエフスキーの表現を借りれば、すべての「踏み付けられ侮辱された者」たちは、進歩政党を求め、進歩政党は彼らのために実地調査、公式的な解決のための手助けをし彼らの痛みをその機関紙を通じて多くの他の弱者たちと共有するようにできれば、おそらく進歩政党の存在の意味は多数に納得されることでしょう。今は多くの人々がその存在そのものも知らず、仮に気付いていたにしても、その存在の意味を「私」と結び付けたりはしないでしょう。
左派は当分は「言説」などより、大型スーパーがトッポッキ売りのおばさんたちの生計を壊し、フリーターたちが賃金をちゃんと支払ってもらえず、工場で残業しても残業手当てもくれないその「現場」に入って行かなければならないようです。そうしなければ、「ムン」や「アン」の類が支配する世の中では、彼らは間違っていると騒ぎ立てることはシジフォスの労働になるでしょう。
原文: 訳J.S