原文入力:2012/01/06 00:25(3735字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
昨日いきなりインフルエンザにかかり、何時間かの間は本を読む気力もなく、ただ子守をしながらもの思いに耽っていました。人は病気の時に反省をするという法則があるのでしょうか。人の常なのかは分かりませんが、自分が痛みを感じるようになれば、果して他人に痛みを与えたことはないのか、すぐ省みるようになります。個人的な反省についてはここには書けませんが、対社会的な問題について昨日考えたことをまとめると、おおよそ次の通りです。資本主義が力を失いつつある今日、韓国を含む数多くの国の左翼が資本主義的な市場至上主義が墜落した分だけの「勢力の拡張」、それだけの成長ができなかった理由は客観的な現実にもありますが、その一方で明らかに私たちにもあるのです。そのことへの反省を真剣にしなければ、左翼を名乗ることはできないでしょう。そのような反省がなければ、左翼は左翼らしく大衆化できないし、反省せずに独りよがりになればなるほど、結局は閉鎖的なセクトに転落する危険性は大きいのです。反省の主題は、大まかながら次のようにまとめることができそうです。
1. ソ連の崩壊は確かに希代の悲劇でした。1989年から1997年までの間にロシアだけでも千人当たり死亡率が9人から16人に激増し、1980年代に比べ約3百万人が「余計に」死んだことになります。栄養失調とアルコール・麻薬中毒、様々な犯罪、チェチェン独立運動への武力鎮圧と虐殺等々で苦しみながら死んでいったわけです。このような民衆の犠牲を対価にして極少数の官僚や官製財閥、政商どもが旧ソ連の資源と工場を「私有化」(掠奪)し、寄生的で極めて暴力的・反民衆的な「新興資本主義」社会を建設したのです。こんな社会に比べれば、後期のソ連さえもほとんど楽園に見えたりします。しかし、だからといって、果してソ連や東欧諸国の崩壊/体制の変換を「社会主義の死亡届」といえるのでしょうか。プーチンのマフィア資本主義に比べれば、明らかに民衆にとっては暮らしやすい社会だったものの、スターリン時代の保守化と革命家たちの粛清、官僚化を経た社会は最早ほとんどこれといった革命性を保持できなかったのです。革命性をそのままある程度保っているキューバのような「現実社会主義」社会などは、ソ連とは違って滅びていないし滅ぶこともないでしょう。スターリン時期以降のソ連の社会的な体質からすれば、高級官僚たちが掠奪的な資本家に変身し「私有化」に取り組むことはあくまでも時間の問題だったし、これは「社会主義の崩壊」というより、1917年のロシア革命の窮極の「一周期の完走」と見ざるを得ません。革命前の資本に対する私有制が復活したため、「原点」に舞い戻ったわけです。一方、一国化してから孤立化・官僚化して結局変質してしまい、このように自己否定されたロシア革命は「原点」に帰還できたとしても、これは社会主義という世界的な理念の敗亡を意味しないし、意味することもできません。ソ連崩壊を「社会主義の敗亡」とみなすのは、明らかに根拠のない敗北主義です。この敗北主義は、特に1990年代に国内の左翼を荒廃化させ、「ポストの流行」などといった様々な奇形的な現象を巻き起こしたのです。歴史を長い目で見なければならない左翼は、何故そこまで近視眼的だったのでしょうか。
2. ソ連や北朝鮮は確かに私たちの夢見る「社会主義」とは程遠い社会です。革命の漸次的な制度化・官僚化の過程もあったとはいえ、いくら革命的熱気が残っていようが、米帝や西欧、日本、南韓のような屈指の野獣たちから防御するために、国内総生産の約20~25%を無意味な「国防」に費やさなければならない、様々な貿易の制限により最新技術への接近が大幅に妨げられた(準)周辺部の社会は、人々が少しだけ働いても各自の自由な自己実現が可能な共産主義的楽土に発展することは極めて困難です。膨大な資源とかなりの技術力を持ったソ連さえも、結局は多くの人民たちには若干の余裕のある相対的な貧困を強いざるを得なかったし、資源が遥かに少ないにもかかわらず国防費の比重が遥かに高く、孤立が一層深刻な北朝鮮は、悲劇的にも食糧問題さえも安定的に解決できなくなってしまいました。真の社会主義とは一国的な現象ではなく世界的な現象ではなければならないものであり、現在核心部が保有する技術力以上の生産力水準を要求することでしょう。でなければ、真の自由、すなわち毎日人間を疲れ果てさせる労働からの自由は可能になりません。共産主義社会では皆が一日に2~3時間の社会的な労働をすれば、残りの時間は詩を書いたり、散歩をしたり、音楽を聴いたり、愛したりするなど、文字通り皆の自由な自己実現を担保しうる個人の自己実現に沒頭できるでしょう。しかし、野獣やいつ干渉するかもしれない強大国に囲まれた北東アジアの最貧国に対して、そんな社会になれと要求することは確かに無理でしょう。
ところで、ソ連や北朝鮮の現実が私たちの理想とかなり異なるとはいえ、その現実を様々な理由で客観的に見ることが困難な多くの分派の進歩主義者たちに対しては、果してそこまで排他的に構える必要はあったでしょうか。2008年以前の旧民労党の民族主義者/自主派たちは北朝鮮の現実を直視できず、階級の問題を等閑にしたことは残念なことでしたが、左翼は本当に彼らに妥協の余地も与えず無視するしかなかったのでしょうか。分党は避けられなかったかもしれませんが、本当に最善の策だったのでしょうか。たった今、私たちが目にしているのは左翼の去った民労党が柳時敏(ユ・シミン)などのブルジョア政客たちの付添いになってしまった、気の毒な光景です。ブルジョア政客たちの手を躊躇いなく握ることは確かに民族主義者/自主派たちの甚だしい誤謬であり、彼らのある根本的な判断ミスを示す部分に相違ありませんが、それでも左翼が同じ党に留まっていたら、民族主義者/自主派たちを牽制し彼らのこのような致命的な誤謬を予防することも可能だったのではないでしょうか。最早過ぎたことなので言っても仕方のないことですが、当時分党を肯定した自分自身の言行を、今私は責めたくなります。残留民労党がブルジョア自由主義政治の淵に陥ってしまった現在としては、進歩新党の独自の強化、真の階級政党としての大衆化などが唯一の選択肢なのですが、4年前のことは多くの面で後悔しています。
3. 産業化した世界の中で、労働者たちが最も長時間働き、非正規労働者が最も多い国では、切実な階級問題の代りに多少観念化した「民族」問題を優先させるのは当然左翼の成すべきことではありません。労働者たちには地獄にすぎない野獣である南韓の主導で「統一」が成されることは、下手をすると北朝鮮の民衆たちに大災難になる危険性が高いのです。結局、南韓との平和共存体制の中で北朝鮮が独立的に発展していく中で、現在中国やベトナムの民衆がストライキなどを起こしているように、北朝鮮の民衆たちもその統治層に立ち向かい社会的正義の実現を要求しながらその自律的な力量を強めていくことは、おそらく民衆本位に考えられる「統一」問題の当面の最善策ではないかと思われます。とにかく、左翼の「統一」議論の基調には抽象的な「民族」ではなく、具体的な労働階級の権利と福祉、独立的な力量の強化が置かれなければなりません。ところが、自主派の「統一至上主義」などの誤謬に対して上述したように反対するとしても、米帝によって軍事保護領となってしまった国で知識人が当然に感じざるを得ないある種の民族主義的な鬱憤を十分に理解しなければならないのではないかとも思ったりします。軍事的な占領の上に近頃は買弁的性格が極めて強い南韓の支配エリートたちが英語をすべての社会進出、身分上昇の基準にさせてしまったことも、実は多くの人々にひたすら民族的侮辱感のみを与えています。もちろん、左翼が反対しなければならないのは、英語を使う国々の民衆ではなく、南韓を含むあらゆる資本主義国家の支配者たちのはずですが、なにしろ朝鮮半島の植民地的な過去をも考え合わせれば、階級問題が「民族的に」誤解される余地はここでは多いのです。そうだとすれば、民族主義者/自主派たちとより真剣に論争し、少なくとも彼らを人間的にでも理解するべきではないでしょうか。そうしなかった私は、今このことについて非常に後悔しています。
民族主義的などの誤謬は当然「誤謬」と言わなければなりませんが、左翼には独善ではなく理解と寛容が必要でしょう。即断の代りに長期にわたる歴史的なビジョンが必要です。過去に長期的視野と理解、寛容が足りなかったことを反省し、今後同じ過ちを繰り返さないことをここに自分自身に誓うばかりです。
原文: 訳J.S