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[社説]病的な学校暴力と痛みの不感症

原文入力:2011/12/26 19:17(1051字) 
 ラジオのコードで首をしばって引っ張り、菓子の破片を拾わせて、水が入った洗面器に頭をつけ込もうとして、文房具の刃物を手首にあて、ライターの火で体をあぶり、木刀で殴り倒して…。ナチの収容所であったかのような事だが、実は子供たちが同級生に犯したことだ。  2、3か月間苦しめられた生徒はマンションから飛び降りて短い命を終えたが、学校では今でも人間性を踏みにじって一生残る傷をつけて、最後には自殺に追い込む差別、いじめ、暴力が起きている。被害生徒の80~90%が仕返しが怖くて沈黙するばかりだ。相談者の30%が自殺したく思ったというから、そのむごさは察するに余りある。
 教育科学技術部と市・道教育庁は相次いで対策会議を開き、毎年2回ずつ校内暴力の被害調査を実施して相談活動を大幅に強化するなどの対策を決めた。問題が発覚するたびに取られてきた弥縫策にすぎず、これまでに被害生徒が助けを求められないほど暴力は悪化してきたし、たとえ求めても周囲は気づかないほど鈍感になっている。ひとえに子供たちが心配で、今後彼らが導く私たちの社会が思いやられるばかりだ。
 世論の非難を避けようとするだけの対策はもう止めなければならない。行き果てた校内暴力を本当に根絶するには中学教育に対する根本的な反省と省察が必要だ。精神疾病というとユ・ヨンチョルやカン・ホスンらを想起するが、ひとの痛みに無関心で、ひとの立場になって考えることができずに、自分の行為の意味も分からない人間なら、それを疑わなければならない。彼らの特徴は他人の痛みに不感症な思考のマヒだ。残忍で、持続的に行われる校内暴力の特徴も同様だ。
 学校がこのような病症を育てたことは競争至上主義教育と関係がある。成績だけで判断されると、友達の生と痛みを推しはかる感受性と共感は無視される。脱落者に対する差別と暴力は日常化、正当化される。競争至上主義教育が精神障害型の校内暴力の温床になるしだいだ。アウシュビッツを企画したアドルフ・アイヒマンの最大の罪は隣人の痛みに対する無関心、反省しない思惟、思考の停止と言ったハンナ・アレントの指摘を銘じなければならない。私たちの学校は、はかなくとも子供たちをそのように育てている。
原文:https://www.hani.co.kr/arti/opinion/editorial/511906.html 訳:TW