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‘韓国の波’青島(チンタオ)にはペク・チョンガンらが暮らしている

原文入力:2011/11/21 09:45(5388字)
ユ・シンジェ記者


朝鮮族大移住100年<2部>③見知らぬ町
新しい経済基盤を求めて南下する3世たち…青島‘第2延辺’


←去る10月1日、青島の衛星都市であるキョナム市で開かれた青島朝鮮族民俗祝祭に参加した朝鮮族の子供たちが音楽に合わせて踊っている。 この子供たちは青島の朝鮮族幼稚園に通っている。


色あせた写真の中の祖父は軍服を着ていた。胸には勲章がたくさんついていた。1950年晩秋、祖父は鴨緑江(アムノッカン)を渡った。満州で日帝・国民党軍と戦った朝鮮族2万人余りが韓国戦争に参加した。朝鮮族にとってそれは‘抗米援朝’(米国に対抗し朝鮮を助ける)戦争だった。38度線まで下って行き多くの戦闘を行った。多くの朝鮮族が韓国軍をはじめとする国連軍のために命を失ったが、祖父は弾丸の一つにも当たらずに黒龍江省牡丹江シンアンジンの家に帰ってきた。祖父は朝鮮族の英雄だった。

英雄の孫チョン・ドングン(37)氏は軍人のようにいつも髪を短くしている。彼は飾りっ気はないが豪胆だ。牡丹江を離れ北京のある大学に入学したチョン氏は民族的自負心が強かった。漢族の学生たちとしょっちゅう喧嘩した。彼は喧嘩をするにも命を賭けた戦闘のように行った。ある時は相手の刃先がチョン氏の心臓付近に食い込んだし、また他の日にはチョン氏のヒジがまた別の刃を受けた。


彼の戦闘は中国の4大港町である青島で続いている。数多くの朝鮮族が青島で新しい経済的礎を作っている。理念のために戦った祖父とは違い、孫は金のために戦っている。この戦いでは韓国は敵軍ではない友軍だ。青島に進出した韓国企業は中国現地をよく知っているチョン氏を雇用した。チョン氏は韓国企業を通じて市場競争に目を開いた。


彼は3年前から酒類事業に飛び込んだ。中国酒の香りを除去した‘雪原焼酎’を作った。 中国酒と韓国焼酎の中間ぐらいの雪原焼酎は山東省20万朝鮮族に人気が高い。 一日の戦闘を終えた彼らは毎晩、雪原焼酎で疲労を癒す。おかげで‘抗米援朝’英雄の孫は今や‘中国式社会主義市場経済’の英雄になった。


青島/文・写真 ユ・シンジェ記者 ohora@hani.co.kr


中国東北地域に集団居住していた朝鮮族を山東省の沿海都市 青島に呼び出したのは韓国だ。 1990年青島に近い港町である威海(ウェイハイ)と仁川(インチョン)を結ぶ航路が開かれ韓国に親戚訪問のために行く朝鮮族が集まった。1992年韓-中修交以後、中国に進出した韓国企業らも仁川港と海を挟んで向き合った青島に進出した。韓国企業らは韓国語が通じる朝鮮族を先を争うように雇用した。 韓国を往来して金を稼いだ朝鮮族までが気候が暖かく韓国との接近性が良い青島に定着した。1988年100余人に過ぎなかった青島の朝鮮族人口は20余年の間に13万人余りに増えた。外交通商部の在外同胞現況資料によれば2010年12月現在の青島の朝鮮族人口は13万4400人、山東省全体の朝鮮族人口は20万人だ。東北地域に代わる新しい朝鮮族集団居住地域が形成されているわけだ。


生臭い魚を釣って暮らす小さな漁村にドイツ人たちが押しかけた。黄海に向かって突き出している山東半島は大陸へ向かう要所だった。広漠たる土地をむさぼったドイツ人は1897年山東半島の青島を占領した。その土地に異国風の家を建てて暮らした。後日、中国4大港町として発展する土台になった。ドイツ人はビールも残した。麦麺(うどん)を食べていた中国人は即座に麦酒に嵌った。100年余りの歴史を持つ青島ビールはそのようにして誕生した。


90年代に韓国企業押し寄せるや朝鮮族も集まった。青島など山東省には現在20万人が暮らしている。東北地域に代わる集団居住地になったのだ。


韓国人は焼酎を伝えた。青島に進出した韓国人企業家は韓国焼酎を飲んだ。一緒にそれを味わった朝鮮族も中国酒を敬遠するようになったが、彼らにとって韓国焼酎はどうしても薄かった。朝鮮族チョン・ドングン(37)氏が作った‘雪原焼酎’は中国蒸留酒と韓国稀釈酒の長所だけを選んで混ぜた。韓国の味と中国の味にあまねく接した青島の朝鮮族が好んで飲む。


中国軍として6・25(韓国戦争)に参加し、韓国軍と戦ったチョン氏の祖父は1990年に亡くなった。ちょうどその年、仁川~威海を結ぶ航路が開かれた。半世紀前に中国軍に追われて引き潮のように流出した韓国人は、90年代に新しい航路によって上げ潮のように青島に集まった。韓国企業に就職するために朝鮮族も青島に来た。上海・北京などに比べて青島は東北3省(吉林省・遼寧省・黒龍江省)からそれほど遠くなかった。


1988年青島の朝鮮族人口は100人余りだった。1996年には1000人余りに増え、今や青島を中心にした山東省に20万人余りの朝鮮族が暮らしている。中国居住朝鮮族190万人余りの10%を占める規模だ。韓国・米国・日本などに散った70万~80万人を差し引いて20~50代の労働可能人口を推し量れば、中国に残った朝鮮族青壮年の30~50%が青島および近隣衛星都市で生活していると推定される。


桑田碧海の歳月は祖父の敵国であった韓国を孫の友軍にした。大学卒業直後、チョン氏は青島に進出した韓国の貿易会社に入った。 韓国人部長の仕事を見て事業・競争・市場そして資本主義を習った。この時、会った韓国の取引先はチョン氏が自分で事業を始めた後にも強固な支援軍になった。チョン氏は来年にはマッコリ事業も始める計画だ。山東省に住む20万の朝鮮族と8万の韓国人を主な顧客とするというのがチョン氏の考えだ。


計画どおりになるかどうかは楽観できない。青島の朝鮮族経済圏は景気変動に敏感だ。‘青島朝鮮族企業協会’副会長を務めるチョン氏は丈夫な基盤を整えた上流層だ。工場を率いた彼とは違い青島に定着した朝鮮族の相当数は中小自営業者だ。青島でも朝鮮族が最も密集するチョンヤン区には朝鮮族または韓国人を相手にする商店が800店余りある。90%以上が食堂・カラオケ・食料品店だ。韓国で稼いだ朝鮮族の資金、中国に投資した韓国人の資金がこちらに集まる。中小自営業は現金の流れが良い時には大きく成功するが、反対の状況では急速に没落する。


「必ず技術を身につけてこい」韓国へ行く朝鮮族の友人たちにチェ・ヘジョン(43)氏はそのように言う。青島で生半可に商売を始め失敗して再び韓国へ行く朝鮮族をチェ氏は無数に見てきた。彼らは韓国で炊事手伝い、家政婦、看病人として働いた。数年にわたりお金を貯めても彼らの手に残る経営ノウハウまたは専門的技術のようなものはない。彼らは特別な技術の必要がない食堂・カラオケを始める。同じ目的の朝鮮族自営業者が青島にはすでに溢れているので相当数は店をたたむ。彼らは再びまとまった金を稼ぎに韓国に行く。


チェ氏はそれでも事情が良い方だ。90年代後半に彼は韓国の工場で5ヶ月間働いた。月給を貯めてソウル、狎鴎亭洞(アックジョンドン)の美容学院に登録した。週末には食堂で塾費・生活費を稼いた。大峙洞(テチドン)の美容室に就職して初めてした仕事は床清掃であった。5年間、韓国の美容室で仕事をして貯めたお金で2002年に青島にヘアーショップを開いた。中国の美容室の2倍にもなる高い料金でもお客さんは絶えない。他の朝鮮族と彼との差は‘美容技術’にある。振り返ってみれば、大多数の朝鮮族は韓国生活の間、美容技術さえ習う余力がない。青島朝鮮族の相当数は日雇い労働と中小自営業、そして失職状態に至る堂々巡りをしている。


現地進出した韓国企業や韓国で稼いだ金で大部分が食堂・カラオケ・スーパーを営む。青年たちは成功の機会をつかもうと腐心する。


←去る10月1日、青島の衛星都市であるキョナム市で開かれた青島朝鮮族民俗祝祭に参加した朝鮮族が伝統舞踊公演を行なっている。


数十万ヶの堂々巡りが続く青島の裏面には東北部の没落がある。朝鮮族が集団居住した中国東北地域に金の種が尽きた。1990年代以後、韓国企業の中国投資の内 55~60%が山東地域に集中している。その内の60%は青島に集まった。残りの資金は北京・上海など沿海・内陸の大都市に向かった。 東北へ向かう資金はほとんど無かった。


海外の投資企業に比べて競争力が弱い中国東北の土着企業は90年代以後、続々と倒産した。失職と貧困が広がった。吉林省社会科学院の資料によれば、2003年東北地域の都市貧民は560万人余りに達した。それは中国大陸全体の都市貧民の25%規模だ。都市貧民とあまり変わらない東北の農民たちまでが加わり広大な失業人口を形成した。彼らは金のある所を求めて土地を離れた。


中国は都市と農村の住民登録を分離して管理している。東北地域の農村に住民登録した朝鮮族が沿海・内陸大都市の住民登録を得ることは不可能に近い。全く同じ中国の土地ではあっても故郷を離れた瞬間、住宅・就職・教育・福祉で不利益を受ける。2000年代中盤以後、中国政府が都市・農村の住民登録分離の弊害を徐々に改善しているものの、その障壁は相変らず高い。文字どおり全てを捨てて朝鮮族は故郷の村を離れる。彼らが信じるものは現金しかない。


チェ・チョンナム(28)氏も金を稼ぐために2006年に青島に来た。「何も考えずに故郷を後にしましたよ。」吉林省、ポムン市が故郷であるチェ氏が話した。彼は高中(高等学校)卒業後、ネットカフェでアルバイトをした。 オンラインゲームをして韓国人ゲーマーたちにゲームアイテムも売った。青島ではルームサロンのウェイターとして働いた。この頃は‘2足の草鞋’を履いている。昼は結婚式の司会をし、夜になれば酒場で歌う。彼の将来計画は明快だ。韓国に行くか青島でチャンスをつかむことだ。それでも希望に胸を膨らませているわけではない。


「俺たちはなぜうまくいった奴が一人もいないのかと互いに笑いますね。」高校の同窓は中国の都市で商ったり韓国で就職したりもしたが「出世した奴は一人もいない」とチェ氏は話した。韓国のある放送のオーディション プログラムに参加した彼は韓国で歌手として成功したいと思っている。‘偉大な誕生’の優勝者ペク・チョンガンは誇るべき技術も資本も学歴もない若い朝鮮族のロマンだ。


そのような朝鮮族の青年たちは朝鮮族の大人たちの心配の種だ。中国東北部で農業に従事し、韓国で日雇い仕事をして、青島で成功を夢見る既成世代が見るには、彼らはとても雲をつかむようだったり虚弱だ。さらには若いチェ氏もそのように考える。「大人たちが見るには歌を歌って暮らすという私に分別がないというだろうが….」チェ氏が話した。「故郷にいる幼い友人らを見れば韓国から両親が送ってくれるお金でただ遊んで、独立心もなく、分別がありません。」


しかしこちらの朝鮮族共同体は危うい。子供は漢族に同化して行く。韓国企業も今は北京・上海に行っている…


雪原焼酎の社長チョン氏は10才の長男が物足りない。両親の豊かな小遣に飼い慣らされ、芯の強さがないとチョン氏は考える。戦線で号令した祖父や青島で攻撃的に事業を拡張した父親と似ていない。民族的自負心が強い父親が見るには7才になった次男は朝鮮族らしくない。二番目は朝鮮語(韓国語)をかろうじて話したり理解できる状況にとどまる。漢族に度々同化されるような二番目を見守るチョン氏はこの頃不吉な予感を覚える。「息子が突然漢族の嫁を連れてきたらどうしよう?」


成功した数人の朝鮮族が主導して作った企業協会・女性協会・郷友会・老人会・朝鮮族学校が青島にもある。しかし東北朝鮮族共同体が持っていた活力とは距離がある。長男を延辺の民族学校に行かせたチョン氏は、次男を漢族の学校に行かせた。学生数が減り民族学校の教育環境が悪くなり、朝鮮族は名門漢族学校に視線を転じている。青島の朝鮮族の子供たちは漢族の子供たちと付き合い中国語で話して書き聞く。


今日の彼らを生んだ韓国企業の投資は2000年代以後、青島から北京・上海などへ中心軸を移している。韓国の大企業はすでに朝鮮族ではない中国本土の漢族を相手にしている。青島に残った韓国企業は大部分が繊維・履き物・帽子・電子部品などを作る中小製造業者だ。韓国中小企業センターの資料によればその内 50%が赤字状態で、30%は現状維持に汲々としている。一部の韓国人社長は工場を閉鎖し夜中に逃走し朝鮮族労働者らの怨みを買っている。90年代韓国企業の青島投資は中国東北の産業基盤を荒廃化させた。青島に群がった韓国企業の投資までが干からびてしまえば、朝鮮族はどこに行くのだろうか。答えを知っている朝鮮族は煙霧がただよう青島にはいなかった。 青島/文・写真 ユ・シンジェ記者 ohora@hani.co.kr


原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/506282.html 訳J.S