原文入力:2011-04-25午後09:55:45(1678字)
[チェルノブイリ原発災難 25年] 放射能数値 低く欺き収拾要員ら投入
汚染物質除去に100万人投入、IAEA "少なくとも4000人が亡くなった"
"福島原子力発電所も完全な復旧はできないだろう"
ナム・ジョンヨン記者
←ケオルグ レピン(80・写真)博士
収拾現場を見守った科学者レピン博士
1986年4月26日、ウクライナ、チェルノブイリ原子力発電所4号機で煙が広がり始めた時、ゲオルギ レピン(80・写真)博士は隣国のベラルーシ、ミンスクのポリテク研究所で原子力を研究していた。彼の研究は放射性物質がぎっしり埋まった密閉容器に金属を入れ、どんな変化がおきるかを観察することだった。
去る23日、ミンスクのあるアパートで会った彼は「チェルノブイリ事故の消息を聞くやいなや、私が必要になるだろうと思い事故収拾要員を志願した」と回顧した。 「1ヶ月の月給で自動車2台が買える」待遇のためではなかった。現場では放射性物質除去のための科学者らのアイディアと指揮が必要だった。彼はソ連で原子炉をよく知っている何人もいない学者だった。
5月初め、チェルノブイリに到着した時、500人余りが発電所で働いていた。彼は4号機周辺の放射能を防ぐ厚い鉛ガラスで封印された状況室で朝8時から夕方8時まで現場を指揮した。
当時4号機から出ていた放射性物質は3号機の左側の屋根側に積まれていた。人間が接近することはできない‘熱い火’だった。彼はロボットで汚染物質をかき集め、再び4号機原子炉内に入れる方式を提案した。だが、強い放射能のためにロボットは作動しなかった。
↑ 数字で見たチェルノブイリ(※クリックすればさらに大きく見ることができます)
他の妙手を絞り出す時間は彼には与えられなかった。軍人は鉛でできたエプロンとシャベルを支給された。レピン博士は「軍人が屋根の上に登りシャベルで汚染物質を運びだした」とし「彼らは‘生体ロボット’だった」と話した。
軍人はボールペン大の放射能測定機を持っていた。作業者の年間被爆許容値は5R(レントゲン)だった。だが、放射能測定機には常に25R、50Rのような数字が表示されていた。こっそりと持っていたカメラのフィルムが放射能で感光してしまうほどだったという。彼は 「放射能検査官も収拾要員らを現場に入るようにするために数値を低く欺いた」として「そのような慣行について話すことはダブー視された」と話した。
1986年から1992年まで延べ人数60万~100万人が発電所内外の汚染物質除去作業などに投入された。彼らは‘清算人’(liquidator)と呼ばれた。国際原子力機構(IAEA)が保守的に推定した結果、約4000人が亡くなり、この報告書に反論する民間科学者や環境団体のグリーンピースなどは死亡者が数万人に達すると主張している。
チェルノブイリ発電所はコンクリートで封印された。人々はそれを石でできた棺、すなわち‘石棺’と呼ぶ。七ヶ月かけてあたふたとかぶせられた石棺は今また崩壊憂慮が提起され、補強しなければならない。彼は「ロボットもまた拡散した放射性物質を集めるには限界がある」として「福島原子力発電所も完全な復旧をすることはできないだろう」と話した。原子力発電所から半径30~40kmの外側は後日に一部居住が可能でも、内側は継続的に放射能落塵が残っているだろうと見通した。
レピン博士は毎年 療養施設に通いながら放射性物質低減治療を受けている。チェルノブイリ事故以後、手は震えるが元気な方だ。レピンが写真を出して見せてくれた同僚医師は数年前に胃癌で亡くなった。 ミンスク(ベラルーシ)/文・写真ナム・ジョンヨン記者 fandg@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/environment/474774.html 訳J.S