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金大中拉致事件の真相究明のために最期まで奮闘した古野喜政記者を悼んで

登録:2025-04-29 07:10 修正:2025-04-29 14:13
[故人の足跡]古野喜政・元毎日新聞記者
2018年、大阪で開かれた筆者の出版記念会に車椅子に乗って参加した元毎日新聞記者の古野喜政さん(左)と筆者=筆者提供//ハンギョレ新聞社

 1973年8月8日に東京都心のあるホテルで真昼に繰り広げられた金大中(キム・デジュン)元大統領拉致事件の真相究明を生涯の課題として人生の最期まで奮闘した古野喜政記者が16日、死去した。

 記者精神の神髄を全身で示した古野記者に初めて会ったのは、2007年6月のことだった。「国家情報院過去事真実糾明委員会」が調査対象の一つとして金大中拉致事件の結果を発表しようとしたところ、日本政府が数十年前に終わったことを再提起しようとする真意は何なのかと、裏で「待った」をかけていたころだった。背景を取材するために、拉致事件当時の支援運動に関与した日本人の人脈を紹介してもらおうと、金大中元大統領の主要な側近であるハン・スンホン弁護士を訪ねた。用件が終わって立ち上がろうとしたところ、ハン弁護士が新刊として1冊の本を渡してくれた。古野記者の力作『金大中事件の政治決着: 主権放棄した日本政府』だった。田中政権が主権侵害事件をあいまいにして隠蔽しようとした過程が興味深く記述されており、一気に読んだ。必ず会うべき取材対象だと考えて電話したところ、大阪に来るならどこに泊まるのか知らせてほしいと言われた。しばらくしてから今度は古野記者が電話をかけてきて、ソン・ゴンホ氏(ハンギョレ新聞初代社長)を尊敬していると語った。

ソウル特派員として赴任した年に事件が勃発 
軟禁中だった自宅をたびたび訪問して筆談 
「金大中に密着する日本人記者」とレッテルを貼られ 
帰国の途の空港で中央情報部に連行されかけたことも 

自衛隊情報要員を執拗に追跡 
拉致関連の機密内容を加えた著書を発刊 
2年前の病床でも「新しい本を出す」と意欲

 1936年、北九州に生まれ、京都大学を卒業後に毎日新聞に入社した古野記者は、毎日新聞大阪本社で主に仕事をした。警察、司法、検察を担当し、骨の髄まで社会部記者だった古野記者は、1973年3月にソウル特派員として赴任した。外信部での勤務経験はまったくなく、少々異例の人事だった。

 韓国のニュースを日本の新聞では大きく扱っていなかったころで、日本赤軍のよど号ハイジャック事件(1970年)や大然閣ホテル火災(1972年)のような突発的な事件や事故が起きない限り書くことがなく、退屈ではないかと心配したという。そのようなのんきな杞憂は金大中拉致事件で完全に消え、速報を書き続けるために、長くても2年ほどの赴任期間が3年に延びた。

 古野記者は拉致当日、金大中氏が失踪したという本社の連絡を受けると、東橋洞(トンギョドン)の金大中氏の自宅に駆けつけた。国内外の記者のなかで最初に到着した。国外で反維新闘争(反朴正煕(パク・チョンヒ)政権闘争)を行い、中央情報部の工作によって強制的に連行された後、軟禁と獄中生活が続いていた金大中氏にとって、古野記者は信頼できる数少ない外信記者だった。時々人づてに東橋洞に来てほしいという連絡を受けて訪ねると、「盗聴されない」部屋で話したり、筆談を行ったりした。そのため、朴正煕政権からは「金大中に密着する日本人記者」というレッテルが貼られたりもした。

 1976年3月に3年間の任期を終えて帰国の途についたとき、金浦空港で受けた屈辱的な扱いは、古野記者が朴正煕政権期にどのような状況のもとで仕事をしたかをよく示している。中央情報部の職員は古野記者のカバンを隅々まで調べ、緊急措置違反の文書が出てきたとして連行しようとした。万が一の事態に備えて待機していた日本大使館の職員5人が阻止し、なんとか飛行機に乗れたが、取材ノートと写真はほとんどが押収された。

古野喜政記者が出した著書=筆者提供//ハンギョレ新聞社

 帰国後に大阪本社の社会部長や編集局長などの要職に就いていたときも、金大中拉致事件の奇妙な収束の背景を追跡する手を緩めず、『金大中事件の政治決着』以外にも、『韓国現代史メモ 1973ー76:わたしの内なる金大中事件』『金大中事件最後のスクープ』などの著書を出した。2010年に出版された『金大中事件最後のスクープ』は、拉致実行の前に中央情報部の要員の依頼で金大中氏の動向を調査していた元職・現職の自衛隊の情報要員が、事件発生後に後藤田正晴官房副長官(当時)の指示で一斉に潜伏し、彼らに支給された逃走資金は「官房機密費」だと推定されるという衝撃的な内容だ。官房副長官は通常、内閣の中心において、政府の報道官役を担う官房長官の下で実務的に補佐する最高位の官僚だ。

 古野記者は、執拗な追跡の末に情報要員の重い口を開かせて得た証言を基に作成したこの本に、非常に強い誇りを持っていた。日本メディアに最初に報道資料を送った後、私に本を渡すと約束した。残念なことに、日本の大手メディアはほとんど関心を示さなかった。気まずい話だが、そのおかげで私は同年4月に古野記者が苦労して取材した内容を、ほとんど手間をかけずにハンギョレで大きく報じることができた。

 古野記者は金大中事件だけでなく、1970年代の韓国の民主化運動も情熱的に報道した。東亜日報のソン・ゴンホ編集局長が経営陣の記者解雇方針に反発して辞表を出したことや、東亜日報の若手記者たちが労働組合を結成したことを1段のスクープ記事で報道したと自慢したりもした。

金大中拉致事件から50年目の2023年夏、古野記者は病床でも新しい本を出す意欲を示した=筆者提供//ハンギョレ新聞社

 古野記者を最後に訪ねたのは2023年7月だった。大阪に用事があったついでに、病院に見舞いに行った。病床に横たわる状態だったが「百歳まで生きる」と冗談を言い、拉致事件から50年になったので、以前に書いていた原稿を集めてまた本を出すと意欲を示した。

 維新時代(1972~1979年)の朴正煕政権は、在日コリアンの留学生を頻繁にスパイとしてでっち上げ、捏造事件を次々と引き起こした。1975年11月22日に中央情報部のキム・ギチュン対共捜査局長が大々的に発表した「11・22事件」(学園浸透スパイ団事件)が、その代表格だ。古野記者は驚くべきことに、この事件の発表11日前に、在日コリアンの若者たちが当局に連行されたり、空港で出国を停止されたりする事件が相次いで発生していることを送稿した。これが2段記事で報道されると、情報入手の経緯について中央情報部の厳しい追及を受けたという。

 2018年11月に留学生スパイ捏造事件を暴いた拙著『祖国が棄てた人びと:在日韓国人留学生スパイ事件の記録』の日本語版の出版記念会が大阪で開かれたとき、古野記者は車椅子に乗って会場にやってきて、激励してくれた。今年は11・22事件から50年にあたる。11月に関連のイベントが予定されているが、古野記者の魂が共にいてくれると堅く信じている。

キム・ヒョスン|リ・ヨンヒ財団理事長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/1194738.html韓国語原文入力:2025-04-28 18:49
訳M.S

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