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歴史マニアのプーチン大統領の「恐れ」…内乱の1917年に言及した理由は

登録:2023-07-05 03:51 修正:2023-07-05 13:53
反乱や10月革命など劇的な事件が続いた年 
内乱で大きな危機に直面したという認識を示す
ウラジーミル・プーチン大統領が先月28日、ロシア最南端のダゲスタン共和国を訪問している/ロイター・聯合ニュース

 「プーチン大統領はいつも本を読んでいる。ほとんどがロシアの歴史に関するものだ」

 ロシア大統領府のドミトリー・ペスコフ報道官が2011年にロイター通信に述べた話だ。ウラジーミル・プーチン大統領は、重要な行事や決定的な局面において、ロシアの歴史を引き合いに出すことがある。過去から何が間違っていたためそうした状況に置かれたのか、問題を正して過去の栄光を復活させるためにはどうすべきなのかを語る。

 昨年2月にウクライナ侵攻を開始する際には、「ウクライナは歴史的にはロシアの一部」との演説で戦争を正当化した。「歴史的使命」を強調する点は、中華民族の偉大な復興を意味する「中国夢」を叫ぶ中国の習近平主席に似ている。

 そのようなプーチン大統領は、先月24日にワグネルの反乱に直面すると、「1917年」の再来を防ぐべきだと述べ、約100年前の歴史を想起させた。プーチン大統領がその年を引き合いに出した理由は何か。

ロシア(ソ連)の対外戦争と政治的激変 //ハンギョレ新聞社

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100年前の悪夢に苦しめられるプーチン大統領?

 プーチン大統領はテレビ演説で、当時の混乱について「第1次大戦においてロシアに大きな打撃を与え、勝利が奪われることにつながった」と述べた。また、「軍隊と人民の背後で発生した陰謀、論争、政治工作は最悪の災難であり、軍隊と国家を破壊し、広大な領土を失わせ、内戦の悲劇につながった」と語った。

 1917年は、ロシアが体験した激動の20世紀のなかでも特にドラマチックな事件が続いた年だ。第1次世界大戦を率いだ皇帝ニコライ2世が、莫大な死傷者と経済崩壊のために発生した2月革命によって追い出され、ロマノフ王朝が幕を下ろした。

 8月には、軍総司令官のラーブル・コルニーロフがアレクサンドル・ケレンスキーの臨時政府の体制に反乱を起こし、10月革命によって、ウラジーミル・レーニンが率いるボリシェビキが権力を握った。ボリシェビキの権力は翌年3月、英国・フランス・米国などが参加した連合国陣営から離脱し、ドイツやオーストリア・ハンガリー帝国などと単独講和条約を結んだ。ボリシェビキ革命は、1923年まで続く内戦を触発した。

 プーチン大統領はこのような状況を短い言葉でまとめた。相次ぐ革命と内乱という敵前での分裂がロシアを弱体化させ、最終的にブレスト・リトフスク条約という屈辱的な講和条約につながったという認識だ。

 これを、ロシア全体がウクライナ戦争に死力を尽くす現在の状況になぞらえ、内乱が発生し大きな危機が迫ったと述べたのだ。プーチン大統領は「ロシア人の運命を決めることになる戦いには、すべての軍隊の団結を必要とする」とし、ワグネルの反乱は「ロシアとロシア人に刃物を刺すこと」だと非難した。

 プーチン大統領の演説は、1917年の状況全般を網羅しているとみられるが、ワグネルの反乱に対する反応である点を考慮すれば、コルニーロフの反乱に焦点を合わせているとみることもできる。コルニーロフは、戦争で勝利するには国内の安定と不純分子の除去が必要だとして銃口を向け、社会主義者が掌握した当時の首都サンクト・ペテルブルクに進撃した。コルニーロフはケレンスキー臨時政府のための行動だと主張したが、これをクーデターとみなしたケレンスキーはコルニーロフを解任した。戦争に激しい拒否反応を示したロシア人は背を向け、脱走兵が続出し、反乱は失敗に終わった。

 コルニーロフの反乱は、ロシア軍指導部を追放するとしてモスクワに進撃したワグネルのトップのエフゲニー・プリゴジン氏の行動に似ている。プリゴジン氏もプーチン大統領に対する挑戦ではないと主張した、最終的には反逆者というレッテルを張られ、反乱は失敗に終わった。プリゴジン氏はモスクワ進撃を宣言し、最初にウクライナとの国境に近い都市ロストフナドヌーを占領した。コルニーロフが反乱に失敗して逮捕された後に脱獄し、ふたたび自身に従う兵士を集めたところがその近くである点も偶然の一致だ。

 プーチン大統領は、レーニンの過ちを正すことを戦争の名分として掲げつつ、「1917年」を引き合いに出す。プーチン大統領は、レーニンがソ連を多民族国家の形で設計して分裂の種をまき、いつの日か爆発する時限爆弾を設置したという認識を持っている。2016年の演説では、レーニンが政治的な必要に応じて、ドンバス地方を当時ソ連の一部だったウクライナ共和国に編入させたと批判した。ドンバスは、ロシアとウクライナの間で激しい争奪戦が繰り広げられている地域だ。

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見え隠れするアフガニスタン戦争の影

1989年2月、アフガニスタンから軍を撤収する最後のソ連軍部隊が、アムダリヤ川の橋を渡り帰国している//ハンギョレ新聞

 プーチン大統領は100年以上前の歴史を呼びだしたが、開戦初期からウクライナ戦争を1980年代のアフガニスタン戦争と比較する見方も示していた。まず、隣接する弱小国に自国に忠実な政権を安定的に植えつけ、確実な緩衝国にしようという動機が同じだ。当時のソ連首脳部は、アフガニスタンがイスラム主義政権になったり、米軍基地が設置されることもありうると懸念した。ロシアがウクライナへの侵攻を決めた背景には、ウクライナが北大西洋条約機構(NATO)に加盟できないよう遮断しようとする目的がある。

 甘くみた相手に苦戦する状況も似ている。1979年12月にアフガニスタン侵攻を敢行したソ連首脳部は、6カ月、長くても1年で戦争は終わると考えていた。アフガニスタンの首都カブールなどの都市地域は、容易にソ連軍の手中に落ちた。だが、ムジャヒディンのゲリラ戦にまきこまれ、戦争は10年にわたった。プーチン大統領は開戦初期、ウクライナ侵攻を戦争とは呼ばず「特別軍事作戦」と命名し、全面戦争ではないとする態度を示した。だが、ウクライナの首都キーウに向かう途中で行き詰ったロシア軍は、1年5カ月目に入り込む長期戦の泥沼に陥った。死傷者の規模は、すでにアフガニスタン戦争の数倍に達する。

 米国や英国などの西側諸国が、兵力を直接投入することなく、ソ連軍やロシア軍の相手に兵器を与える状況も同じだ。アフガニスタン戦争の際も、西側はソ連を非難して制裁を加えた。

 アフガニスタン戦争は、プーチン大統領が「20世紀最大の地政学的災難」と呼ぶソ連崩壊の主要因に挙げられる。人命被害や経済的損失もそうだが、「赤い軍隊」の無敵の神話が崩壊したという点に重きを置く見方も多い。ソ連が1950~60年代にハンガリーとチェコスロバキアに対して行ったようには武力を行使するのは難しくなったという認識によって、東欧諸国が離脱し、ソ連所属の他民族の共和国の独立の動きが本格化した。

 ウクライナ戦争が長期化し、ロシア側の被害がさらに膨らみ、不満の世論が噴出すれば、今回の侵攻をアフガニスタン戦争にたとえる声も多くなるものとみられる。マイケル・マクフォール元駐ロシア米国大使は「ウクライナはプーチンのアフガニスタン」だと述べた。

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プーチン大統領が言わないこと

 つまり、プーチン大統領が「1917年」に言及したのは、かなりの危機感の表れだ。反乱も衝撃的だが、プリゴジン氏が戦争の正当性を正面から否定したことも、プーチン大統領にとっては深刻な問題だ。プリゴジン氏は、テレグラムに投稿した動画で、ロシア国防省が「ウクライナがNATOとともにロシアを攻撃するという嘘によって、大衆と大統領をだまそうとした」と語った。また、誤った戦争準備と作戦のために多くのロシア人が銃弾の犠牲になったと述べた。プーチン大統領の後援で民間軍事会社を率いてきたプリゴジン氏が、プーチン大統領の戦争の名分が操作されたものだと非難したのだ。

第1次大戦の前線を視察する皇帝ニコライ2世(左)//ハンギョレ新聞

 プーチン大統領の歴史的比喩には妥当な点もあるが、論理的欠陥もある。プーチン大統領は、ロシアが内部分裂によって第1次大戦の勝利が奪われたと主張した。だが、内紛が本格化したのは、莫大な人命被害と経済的な困窮のなかでも戦争が終わる兆しがみられないことに対するロシア人の不満の爆発のためだ。すなわち、内紛は敗北の原因というよりは結果であるわけだ。今回も簡単に終えることができた戦争が長期化する過程で反乱が起きた。つまり、プーチン大統領は原因と結果を逆にしたと言える。

 プーチン大統領が自ら言わないことは、大帝国のなかでも政変が多かったロシアの歴史のパターンは、勝利の可能性がない戦争の泥沼から抜け出せなければ、権力が崩壊するという点だ。オックスフォード大学のロバート・サービス名誉教授は、米国誌「フォーリン・ポリシー」への寄稿で、「ロシア人は戦争の状況が悪化すれば、1917年のケレンスキーに対してのようにプーチンに対する支持を止めるだろう」と述べた。

ワシントン/イ・ボニョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/europe/1098581.html韓国語原文入力:2023-07-04 19:43
訳M.S

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