本文に移動

9・11米同時多発テロが招いた中東戦争20年の明暗…中東からインド太平洋へ

登録:2021-09-11 05:22 修正:2021-09-11 09:08
「背後」アルカイダよりもフセインに関心 
「アルカイダの基地」アフガン侵攻後も 
イラク、シリア、イエメン、イランなどへと介入拡大 
 
当時ネオコンは「中東改造論」の立場 
前進基地化狙いフセイン政権交代 
 
後になってアフガン国家建設のため 
1500億ドルほどつぎ込んだものの 
中東は依然として混乱 
標的を中国に変更、インド太平洋へ
タリバンのメンバーが8日(現地時間)、首都カブールにある米国大使館の前で警備に当たっている。先月末、米軍と大使館職員は全員撤収しており、空となった大使館のコンクリートの塀には、タリバンを象徴する模様が描かれている=カブール/AFP・聯合ニュース

 イスラム主義国際武装組織アルカイダが、米国資本主義の象徴であるニューヨーク世界貿易センター(WTC)に乗っ取った飛行機で「体当たり攻撃」を敢行した2001年9月11日。目の前で繰り広げられる「超現実的光景」に、米国のドナルド・ラムズフェルド国防長官はリチャード・マイヤーズ統合参謀本部議長代行に直ちに対応を指示しつつ、自分はアフガニスタンの空っぽの訓練場のみを空爆することには関心がないと述べた。9・11テロについての米政府の調査記録である「9・11委員会報告書」によると、ラムズフェルド長官はテロの主犯であるアルカイダの長ビン・ラディンだけでなく、イラクのサダム・フセインも同時に打つべきだとの見解を明らかにしていた。

 欧州出張からの帰国途上の国防総省のダグラス・フェイス次官の考えも同じだった。彼も帰国する飛行機の中で「フセインを打倒しよう」というアイデアを出した。翌日、ジョージ.W.ブッシュ大統領はクラーク安保担当大統領特別補佐官に「フセインが今回のテロに関与したという証拠を探し出せ」と指示した。クラークが「アルカイダのしわざだ」と言うと、ブッシュ大統領は「分かっている。しかしサダムがやったかどうか調べろ」と再度命令した。米同時多発テロ直後の極限の混乱の中で、米指導部が関心を示したのはテロ組職アルカイダをそれなりに取り締まってきたフセイン政権を倒すことだった。米指導部のこうした「歪んだ認識」は、なぜ米国がその後20年に及ぶ「長い戦争」の泥沼にはまったのかをよく示している。

 テロ発生から1カ月後の2001年10月、米国は予想された通りアルカイダの基地があるアフガニスタンに侵攻し、タリバン政権を崩壊させた。続いて2003年3月にはイラクに侵攻し、フセイン政権を打倒した。しかし、期待していた中東の安定と平和はやって来なかった。2011年のアラブの春の影響で発生した「シリア内戦」と「イラクの混乱」の中で、2014年にイスラム国(IS)が浮上したからだ。それだけでなく、米国は2014年に本格化したイエメン内戦にサウジアラビアを支援して間接介入し、イランとは2020年1月にイラン革命防衛隊コッズ部隊のガセム・ソレイマニ司令官をドローンで爆撃して殺害するなど、低強度戦争を繰り広げている。1941年12月の日本の真珠湾攻撃よりも大きな衝撃を与えた同時多発テロをきっかけとして、米国は世界に自分たちの考える秩序を作り出すことを目指す一方主義へと突っ走っていったのだ。「筋違いの敵」として「誤認した国」において「間違ったやり方」によって遂行された「誤った任務」は「勝てない戦争」へと変わり、米国はますます深い泥沼へとはまっていかざるを得なかった。

 米国が20年におよぶ中東戦争の泥沼にはまった時期は、ソ連の崩壊による冷戦の勝利で、資本主義と西欧式の自由民主主義が人類の歴史の最終段階だとする歴史観が広まった時代だった。「歴史の終焉」言説は、ネオコンなどの過激な右派の理想主義勢力を勢いづかせ、2001年1月にブッシュ大統領が政権を握ったことで、米国式の一方主義という外交政策として具体化した。当時の米国の外交安保分野を掌握したネオコンは、中東に自由民主主義を広め、中東の秩序を永久に再編するという「中東改造論」にとらわれていた。中東の真ん中に位置し、米国にとっては目の上のたんこぶであるフセイン政権を交代させ、中東改造論伝播の前進基地にしようとしたのだ。

 9・11テロ後に米国がフセイン政権の核開発容疑まででっち上げてイラク侵攻を強行したことについて、米国の外交安保戦略家の中でも代表的な現実主義者とされるヘンリー・キッシンジャーさえ、2005年の「ワシントン・ポスト」とのインタビューで「アフガンだけでは十分でないから」と支持した。9・11への米国の対応は比例的なものではなく、それ以上でなければならないと説明したのだ。世界にさらに強いメッセージを伝えるには、イラク戦争が必要不可欠だったとの見解だ。ジャーナリストのロン・サスキンドは2004年10月の「ニューヨーク・タイムズ」への寄稿で「我々は今や帝国であり、我々が行動すれば我々自身の現実を作り出すことができる」とのブッシュ大統領側近の言葉を紹介している。

 イラクに対する米国の執着は、アルカイダとその長であるオサマ・ビン・ラディンの除去という「テロとの戦争」の最重要目標すらあっけなく蒸発させた。米国はアフガン侵攻後、パキスタンとの国境に近いトラボラにおける戦闘で、ビンラディンをあと少しのところまで追い詰めたものの、あきらめてしまった。当時この戦闘を指揮していた海兵隊のマイク・ドロング中将は、国防総省はさらに多くの兵力を投入したがらなかったと振り返っている。トラボラ戦闘の時点で、米軍指導部はすでにイラク戦争の準備に気を取られており、米軍の戦力がアフガンで足を引っ張られることを望んでいなかったのだ。

 米国は中東改造論という遠大な理想を追い求め、「政権交代(レジームチェンジ)」にばかり焦点を当て、その後の「国家建設(ネーションビルディング)」には関心を向けないという矛盾を露呈した。ブッシュ大統領は「我が軍が国家建設と呼ばれるものに使われるべきだとは思わない。戦闘し、戦争で勝利することに使われるべきだ」と述べた。実際に米国は、先端装備による重武装兵力の軽量化を追求したラムズフェルド主導の軍改造論にもとづき、「より少ない兵力で、より速く配置し、決定的に勝利する」という戦争計画ばかりにこだわった。その結果、ブッシュ大統領はイラク侵攻から1カ月半後の2003年5月1日、空母エイブラハム・リンカーンで「任務完遂」と記された横断幕を掲げ、「イラクでの主要作戦はすべて終わった」と勝利を宣言できた。

 しかし、真の戦争はその後に始まった。アフガンとイラクではすでに政権が倒れていたため、この戦争は「誰が敵なのか分からない」かたちで進められた。アフガン侵攻から7カ月後、戦争の主役であるラムズフェルド国防長官は、戦争が泥沼にはまったことを知った。「雪片」と呼ばれるラムズフェルドの機密解除されたメモによると、2002年4月17日に彼は将軍たちに「私には忍耐力がないようだ」、「我々がアフガンを離れるのに必要な安定の提供に気を使わなければ、決してアフガンから米軍を撤退させることはできないだろう」と述べている。しかし、ブッシュ大統領はまさにその日、バージニア軍事学校で米国のアフガン戦争のことを「アフガンの戦争史において、空振りと失敗の長い時間の末に得た成功だった」、「我々はそのような失敗を繰り返さないだろう」と断言した。後にラムズフェルド長官すら2003年9月8日のメモで「誰が悪いやつらなのか分からない」と吐露している。

8日(現地時間)、米ニューヨークで市民が9・11メモリアルの前に立っている。9・11メモリアルは2001年9月11日のテロで崩壊した世界貿易センターの跡地に作られたもの=ニューヨーク/AFP・聯合ニュース

 結局、米国の戦争戦略は「対テロ戦略」から「反内乱戦略」へと転換せざるを得なかった。ゲリラ戦に対応する反内乱戦略は、住民を慰撫して味方につけることが最重要課題だ。そのためには、米国式の民主主義的価値にもとづいた国を作らなければならなかった。しかし、反政府軍が活動する非都市地域では、米国が支援する国家建設作業は円滑に進み得なかった。天文学的な資金をつぎ込んでも、国家建設は米軍の影響力の及ぶ都市地域に限られた。その過程で米国が提供した莫大な予算は、腐敗した現地エリートたちの餌食となった。

 専門家たちは、テキサス州ほどの大きさのアフガンでの国家建設作業に成功するには、10年間で述べ40億~50億ドルが必要だとの見通しを示した。米国は2002年から2009年までにアフガンに年平均で17億5000万ドルを支援してきたが、反内乱戦略を選択した2009年以降は支援の幅を広げ、総額1330億ドルをつぎ込んだ。物価の変動を考慮すれば、第2次世界大戦後の米国の欧州復興策であるマーシャルプランよりも大きな金額だ。このような努力にもかかわらず、アフガンとイラクの非都市地域には学校がなく、あったとしても教師がいない。アフガンの1人当たりの国内総生産(GDP)は500ドルに過ぎない。

 中東で再び予想外の情勢変化をもたらしたのは、2011年初めに始まった「アラブの春」だった。中東全域に広がった革命の炎は、抑圧的で権威主義的ではあったもののイスラム原理主義武装勢力を制御していたシリアやリビアなどを直撃した。それによって深刻な勢力の空白が生じた。ブッシュ大統領は2007年1月10日、イラク戦争の失敗を認めつつ、増強戦略を発表している。この演説でブッシュ大統領は「我々はアルカイダをアフガンの安息所から追い出せていないし、自由イラクに新たな安息所をつくらせたに過ぎない」と述べた。その結果、イラクとシリアの領土内で空前絶後のイスラム主義武装勢力の準国家団体「イスラム国(IS)」という怪物が登場した。また、米国が中東における主敵と見なしているイランの影響力が拡大した。

 米国の20年におよぶ中東戦争は、中東の地政学的地形を大きく変えた。アフガンには再びタリバンが戻ってきた。リビア、イラク、シリア、イエメンなどの中東諸国では無政府状態と内乱・内戦が続いている。そして、今や米国はアフガン撤退を皮切りとして中東から手を引こうとしている。今年1月に就任したジョー・バイデン大統領は、7月にホワイトハウスを訪問したイラクのムスタファ・カディミ首相に対し、イラクでも年末までに戦闘任務を終え、現在残っている2500人の駐留兵力はイラク軍の支援と訓練任務のみを担うと表明している。続いてアフガン撤退を宣言する8月31日の対国民演説では「我々は中国と深刻な競争を行っており、様々な戦線でロシアの挑戦を受けている」と述べている。

 米国のアフガン撤退で20年におよぶ中東戦争は終わりつつあるが、その戦争が残した災厄と痕跡は依然として米国の足を引っ張っている。そして米中戦略競争と名付けられた新たな対立の種が、朝鮮半島を含むインド太平洋地域で芽生えようとしている。

チョン・ウィギル先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/1011193.html韓国語原文入力:2021-09-10 04:59
訳D.K

関連記事