本文に移動
全体  > 経済

援助と開放を経て「韓米経済同盟」へ…米中競争の中、新たな試験台に

登録:2023-06-13 06:30 修正:2023-06-13 10:08
援助、開放への圧力、韓米FTAまで「70年間のドラマ」
韓米FTA再交渉の開始を控え、2017年8月22日にソウルのロッテホテルで開かれた韓米FTA共同委特別会期の場面=産業部提供//ハンギョレ新聞社

 朝鮮戦争以降の70年間で、韓米両国の貿易規模と資本投資規模はそれぞれ数百、数千倍に増えた。少なくとも経済分野において、両国関係は速いスピードで緊密になり深まってきたといえる。このような大きな枠組みの中でも、顕微鏡で中身を覗き込んでみれば、協力と対立が行き来する一本のドラマを観るようだ。「漢江の奇跡」という言葉のように、20世紀には稀有なスピードで進められた韓国の経済成長と米国の対外政策の修正、国際情勢の変化に伴い、両国間の駆け引きが展開されてきた。米中戦略争いとサプライチェーン分裂時代を迎え、両国の経済協力体制は再び新たな転換期に入っている。

無償援助から有償借款時代へ…韓国の経済政策の転換

 戦争の惨禍でこれといった資本が蓄積されていなかった韓国にとって、米国の援助資金は跳躍に向けたシードマネーの役割を果たした。米国の支援で戦後の経済復旧と復興は始まったと言っても過言ではない。学界で1950年代が「無償贈与援助経済」時期、1960年代が「長期低利有償借款経済」時期と呼ばれるのもそのためだ。

 11日、韓国開発研究院(KDI)経済情報センターの資料によると、戦後20年間(1953~1972年)に韓国が米国から受け取った無償援助額は計32億2600万ドル。集計期間を1946年から1978年まで拡大し、有償借款まで合わせると、援助額は60億ドルに達する。同期間中、アフリカ諸国が受けた米援の助額(69億ドル)や米国と地理的に近い南米諸国が受けた援助額(149億ドル)を考えると、米国の韓国援助規模はかなり大きい。

 1950年代後半頃には、米国の援助額が韓国の国内総生産(GDP)の10%を上回った。年間総税収よりも米国の援助額が多かったことも何年かあった。劣悪な貯蓄率など脆弱な国内資本とわずかな財政収入を、米国の経済援助がかなり補う構造だったわけだ。韓国銀行のチョ・ユンジェ金融通貨委員は2001年に発表した論文で、「1960年代の経済跳躍に向けた基盤づくりには、米国からの莫大な援助の役割が非常に大きかった」とし、「当時、米国の援助当局は援助プログラムを韓国のマクロ・産業政策の方向と連動させ、韓国の経済政策に大きな影響力を行使した」と指摘した。

 米国の経済援助方式の修正は、韓国経済に変化をもたらした。米国は1950年代後半から経済援助と軍事援助を区分し、民間資本の役割を強調し始めた。特に、無償援助の代わりに低金利の有償借款の形へと金銭的な支援方式を変更した。経常収支および財政収支赤字の累積など、自国の経済状況を考慮した措置だった。

 具体的には、米国の無償援助は1957年(3億6800万ドル)にピークに達した後から減り続け、1965年には1億3100万ドル、1973年には200万ドルへと減少した。チョ委員は「米国の援助政策の転換は、韓国政府が以前の輸入代替中心から、1958年以降の輸出指向的工業化に政策を切り替える動機になった」と分析した。

 1960年代以降、急速な工業化と産業化に成功した韓国は経済規模を急速に拡大させ、1970年代に入って両国経済は年間貿易量が70億ドル(1978年基準)に達するなど、一方的な受恵国と供与国の関係を越えた水平的なパートナー関係への転換を模索するようになった。

1986年の貿易黒字と貿易摩擦、開放への圧力

 1980年代半ば、韓国経済は3安現象(原油安、ドル安、安い金利)など友好的な国際経済環境の中で成長を続けた。1986年には初めて貿易収支黒字(31億3千万ドル)を達成した。当時、韓国製品の米国市場への輸出額は138億8千万ドル、対米貿易黒字額は73億3千万ドルだった。貿易黒字の達成は米国抜きでは語れない。援助受恵国から供与国への転換を象徴する「対外経済協力基金法」が1986年12月に制定されたのは偶然ではなかった。

 その後も対米輸出の増加とともに貿易黒字が増えていき、韓米関係にも新たな変化が生また。韓国に対する米国の本格的な牽制が始まったのだ。米政府は1992年、議会に提出した報告書で、韓国が経済協力開発機構(OECD)に加入するよう誘導し、米国商品とサービスに対する関税および非関税の壁の撤廃を目指すと宣言した。韓国に市場開放を攻撃的に要求するという意味だ。

 1997年の通貨危機以後の1999年2月、ニューヨーク・タイムズ紙のグローバル経済危機診断企画シリーズ(「グローバルな伝染・Global Contagion」)には、1990年代初めの状況を取り上げた部分がある。「米国は世界金融市場の自由化を推進する過程で、韓国を主なターゲットにしていた。OECD加盟を前提に(あるいは口実に)韓国に市場開放を要求した」

 実際、韓国が1996年にOECDに加盟したことで、韓米経済関係は外国為替市場をはじめ金融・資本市場の開放と自由化▽外国人投資制限の緩和▽各種政府規制の撤廃・緩和という「市場化」へと急速に移動した。このような変化を、1997年の通貨危機と国際通貨基金(IMF)救済金融が加速化させたのは言うまでもない。IMFの大株主である米国の主導の下、210億ドルの救済金融を受ける一方、市場開放と市場化は一層急流に乗ることになった。

韓米FTA…経済同盟への転換、そして新たな局面へ

 2012年の韓米自由貿易協定(FTA)の発効は、韓米経済関係の様相の変化を象徴する事件だった。両国の利害が合致して結ばれたこの貿易協定を機に、緩んでいた両国の貿易構造は一層緊密になった。具体的に、産業化への跳躍の時期に韓国の総輸出における対米輸出比重は1990年(29.8%)を頂点に減り続け、2010年代初めには10%を切り込む勢いだった。韓国の輸出多角化に加え、中国の世界市場への編入などが生んだ結果だった。

 しかし、FTA発効以降、再び韓米両国の貿易規模は増え始めた。韓国貿易協会のチョ・サンヒョン国際貿易通商研究院長は「韓米FTAは両国関係を政治・軍事中心から実質的な経済パートナー中心へと一段階引き上げ、両国の協業モデルに成長する道しるべの役割を果たした」と評価した。

 しかし2017年、「アメリカファースト」を掲げたドナルド・トランプ政権が発足したことで、韓米関係は再び変化を迎えた。自国の経済的利益をめぐり対立する局面に入ったのだ。特にコロナパンデミック以降、サプライチェーンの亀裂と押し寄せる米国主導の保護貿易主義の波の中で、韓国経済は「米中戦略争い」という経済安保時代に巻き込まれ、挑戦と試練にさらされている。半導体やバッテリーなど先端技術を中心に「韓中経済関係」という敏感な問題が絡み合い、韓米両国の経済関係も「自由市場価値観同盟」を越え、協力と対立が同時に内在する複雑な包括的戦略同盟に変わってきている。産業研究院のカン・ドゥヨン先任研究委員は「韓国は第三国を通じた米国市場への迂回輸出の規模も小さくなく、韓国の先端産業の重要技術と設備のかなりの部分が米国を源泉としている」とし、「ただ、世界経済のブロック化を招きかねない貿易の過度な政治化を防ぎ、自由で開かれた世界の交易環境を脅かす措置に反対するという原則を明らかにし、志を同じくする国々と協力して米国を説得する一貫した対外政策を展開しなければならない」と述べた。

チョ・ゲワン先任記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/economy/economy_general/1095469.html韓国語原文入力: 2023-06-12 07:30
訳H.J

関連記事