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独島(ドクト)紛争を招いた米国の日和見主義

原文入力:2011/07/29 20:11(1566字)
ハン・スンドン記者

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日本近代史の研究者 ハーバート ピックスの<ヒロヒト評伝(邦題 昭和天皇)>(オ・ヒョンスク訳、サミン)にこういう一節がある。「米国の沖縄保有に日本人たちは反対しないだろう。 沖縄人は日本人ではないためだ。」こういう話をした人は敗戦国日本の占領軍司令官ダグラス・マッカーサーだ。 1947年当時、マッカーサーの政治顧問がウィリアム シーボルトだったが、彼がまさに今日の‘独島(ドクト)問題’を作り出した張本人の一人だ。独島は日本敗戦を前後して連合国が戦後処理問題を議論する時、当然に朝鮮の土地であったし、それで朝鮮に返還されることになっていた。ところが海軍将校出身のこのシーボルトが自身の上級者であるジョージ アチソンが1947年3月に飛行機墜落事故で死亡した直後、その代わりとしてマッカーサー政治顧問 兼 連合軍最高司令部外交局長職務代理になったことにより仕事が歪み始めた。

極めつけの親日派であり反共主義者であったシーボルトは戦後処理時に台湾に対しても、中国に返還することを約束したカイロ宣言とポツダム宣言などを無視し‘住民投票による信託統治’主張を持ち出した。中国に譲り渡したくなかったのだ。シーボルトは将来 米国の東アジア根拠地となる日本の威勢を回復させなければなければならないと考えた。

琉球諸島(沖縄)帰属問題も敗戦日本の戦後領土処理対象だった。沖縄も元来は日本の領土ではなかった。沖縄が日本領になったのは明治維新の11年後である1879年だ。結局、沖縄を占領した米国は1972年にその島々を返還するが、かつての主人である琉球住民ではなく日本に譲り渡した。沖縄米軍基地の維持を日本が保障したからだ。天皇裕仁がその先頭に立った。沖縄が日本に帰属し26年が過ぎた1905年、露-日戦争の時に日本は独島を自国 島根県の土地に素早く変えた。いわゆる‘保護条約’が締結され事実上の植民地となった朝鮮朝廷は何が起きているかすら分からなかった。 マッカーサーの政治顧問シーボルトは1951年に締結された対日講和条約(サンフランシスコ条約)草案を作る時、このように主張する。「リアンクール岩礁(竹島=独島(ドクト))に対する再考を要請する。これらの島に対する日本の主張は昔からのものであり有効と見られる。 想像するに安保的考慮から見る時、そこへ気象およびレーダー基地を想定できる。」根拠資料が何一つないこういう主張がその後、日本が独島を自らの土地と言い張る時に前面に掲げる有力な根拠の一つとなった。1949年12月29日付サンフランシスコ対日講和条約草案がこれに伴い、独島を日本領だと表記した。草案は何度も変わるが、独島が日本領土として表記されたのはそれが初めてであり最後だった。その後、米国は戦争中の韓国の戦略的価値を考慮して日本と韓国の国交正常化を勧めるために(すでにその時から!) 条約草案で論議の的である独島帰属問題を完全に抜いてしまい、その問題をごまかした。そして日本をなだめるために、当初戦勝国の一員として条約に署名することにされていた韓国を名簿から除いてしまった。米国のこういう日和見主義的な身の振り方のために朝鮮の土地だった独島は宙に浮いてしまい、日本はそれを根拠に継続して自らの土地だと言い張っている。卓越した独島問題研究者チョン・ビョンジュンの<独島1947>にその顛末が詳しく出ている。 ハン・スンドン論説委員 sdhan@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/489650.html 訳J.S