今年は解放80周年だ。しかし、今でも韓国社会では「親日」の根は深く頑強だ。一つ明確にしておこう。この場合の親日とは、隣国日本との健全な外交関係や友好的な態度を指すものではない。20世紀前半の軍国主義日本が朝鮮半島を強制的に占領した植民地支配を支持・擁護したり、正当化したりして批判を回避する見解と言動を指す。
2000年代以降、いわゆるニューライト勢力の「歴史戦争」が典型的な事例だ。落星垈経済研究所を中心とする右派経済学者は、実証主義歴史観を掲げ、日帝強制支配が韓国の近代化に寄与したという主張を理論的に証明しようとしている。いわゆる植民地近代化論だ。イ・ヨンフン氏、キム・ナクミョン氏、イ・ウヨン氏ら6人の共著『反日種族主義』(2019)はその決定版だ。
『植民地近代化の実状』は、「彼らが提起した歴史理解を正すための目的で書いた」本だ。著者の大邱大学のチョン・ヨンドク名誉教授は市場経済学会の会員で、様々な政治哲学や自由市場経済に関する研究と講義をしてきた。今は「経済理論を韓国経済史に応用することに関心と努力を集中」している。この本は、右派市場経済学者が書いたニューライト経済史観批判書だ。
著者は韓国の経済学者としては珍しく、オーストリア学派に分類される。オーストリア学派は、政府の市場干渉に反対し、社会主義の持続不可能性を確信しているという点では右派市場主義経済学だが、20世紀以降の経済学の主な方法論である計量経済とマクロ経済的分析には懐疑的で、人間の本性に注目するという点では、新古典派・新自由主義・シカゴ学派などの主流経済学とも区別される。1974年にノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエクが代表的だ。
著者は、日帝強占期(日本による植民地時代)の研究者がしばしば犯す誤りとして、「日本帝国または、朝鮮総督府の目的、それに関連する宣伝・扇動、恐怖による支配と監視・監督、抑圧や処罰などをほとんど扱わない」という点を挙げた。日帝は状況に応じて他の政策を展開したが、これは「植民地支配の費用を少なくして、支配にともなう利益を最大限確保する」意図だった。著者は、ニューライト経済学者が収集・整理したデータを積極的に活用し、彼らの論理を覆す。統計数値を機械的に適用するのではなく、当時の国際関係と政治・経済的文脈のなかで解釈する手法だ。
日帝の朝鮮総督府は1937年の日中戦争まで、朝鮮半島における産米増殖計画など、徹底した農業中心政策を固守した。これは、日本本土の産業政策と連携した後方の食糧基地経営の考えによるものだった。日本への米搬出を含む各種資源の供出も、「契約の自由」がなかったという点で、「輸出」ではなく「収奪」であり、「自律を装った他律」だったというのが著者の解釈だ。朝鮮半島での農事会社の設立は、日本人にだけ与えられた特権であり、朝鮮半島経済が日本経済と統合されたわけでもなかった。
日本は1937年に中国本土を侵略した日中戦争以降、朝鮮半島北部と京仁地域に製造業の工場を建設し、鉱工業の割合を高めた。しかし、これは戦争物資の生産のための兵站基地建設が目標であり、生産物資はほとんどが戦場で消耗した。1937年からの朝鮮半島の工業化について、一部の歴史家は「軍需工場化」と命名する。しかし、著者はそのような変化をまったく別に解釈する。オーストリア学派経済学は、戦争遂行目的の工業化を「戦争社会主義」または「戦争経済」と定義する。戦争社会主義は「国家が領土内の人間を含むすべての資源を、(市場原理ではなく命令と指示で)動員・配分・消耗する経済体制」であり、持続不可能なだけでなく、経済的付加価値が生活水準向上に直結することもない。通常の資本主義ではないとのことだ。
日帝強制支配期に朝鮮半島にある程度の工業化が進展したのは事実だ。相対的に農業の比重は減った。しかし、産業の比重の変化の背景と用途を掘り下げてみると、話が変わる。落星垈経済研究所長を経て、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権下で韓国学中央研究院の院長を務めたキム・ナクミョン氏の共著『韓国の長期統計』によると、韓日強制合併の翌年の1911年から1940年まで30年間に、朝鮮半島の鉱業・製造業の割合は5.0%から17.5%と3.5倍に増えた。同期間の農業・畜産・林業・水産業の割合は67.8%から42.0%に減少した。これについてチョン・ヨンドク教授は、「朝鮮半島は農業中心地帯であり、製造は一部は成長したが、依然として貧弱な状態(…)そのような工業化でさえ、製造業では軍需工場が最大の割合を占めていたため、通常の工業化とは言えない」と評した。
チョン・ヨンドク教授は、植民地近代化論者が「近代化」の意味を正確に定義していない点も指摘する。チョン教授は政治学者のチョン・ユンジェ氏の定義を引用し、単位民族の政治的独立▽工業化▽民主政治の3つを近代性の中心に選んだ。この基準に照らしてみると、「軍国主義日本」は西欧の文物を大幅に受け入れ、外見上は近代化を達成したが、「天皇制を政治的に利用し、政治と宗教を統合して(…)帝国内の他民族を『国民(=天皇の臣民)』に変えることによって、近代化とは正反対の道を歩んだ」
チョン・ヨンドク教授がみるところ、植民地近代化論者は「経済的には『近代化=経済成長』、政治的には(朝鮮と日本の)同化主義、社会的には1912年の民法施行と初等・中等教育の導入と拡大などを念頭に置いて」いるようだ。しかし、経済的な意味にだけ狭めてみても、「近代化=経済成長」という等式は正しくない。「軍国主義日本が朝鮮人のためという名目で施行した経済成長政策や制度は、実際には日本人請負業者と地主、元職・現職の総督府の官僚、日本人労働者や技術者、在朝鮮の日本公式機関のためのもの」だったためだ。産米増殖計画と水利組合事業が強制的に施行された点もこれを裏付ける。
近代化の核心的な象徴は自由と平等の広がりだろう。しかし、軍国主義日本が朝鮮半島で行った土地と資源の収奪、強制徴用と徴兵、恐怖による支配、監視・監督の日常化、雇用・賃金・教育などの全方向的な差別は、それとは正反対だ。著者は「日帝は朝鮮半島の朝鮮人の自由を、政治的には軍国主義で弾圧し、経済的には干渉主義と社会主義で生産性の低い経済体制を強制し、日本人に比べて韓国人を差別したため、植民地の朝鮮半島の近代化をむしろ阻害した」と強調した。