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習近平1人統治時代…中国の若者たちが「中華」の帽子を脱ぎ捨てたら

登録:2022-11-05 11:28 修正:2022-11-06 07:21
[書評] 
人類学者シャン・ビャオと若者の対話 
「周辺」喪失の時代を診断 
 
無限競争に傷ついた若者世代 
「強大国への幻想」に逃避
中国共産党党大会開幕を3日後に控えた10月13日、北京の大学街の四川橋で「PCR検査ではなく飯を、封鎖ではなく自由を、嘘ではなく尊厳を…」と書かれた横断幕を掲げたある市民が1人デモを行っている。微博などに掲載されたが今は検閲で削除された写真だ//ハンギョレ新聞社
『周辺の喪失ー方法としての自己』シャン・ビャオ著、ウ・チ(対談)、キム・ユイク、キム・ミョンジュン、ウ・ジャハン訳、クルハンアリ刊//ハンギョレ新聞社

『周辺の喪失ー方法としての自己』シャン・ビャオ著、ウ・チ(対談)、キム・ユイク、キム・ミョンジュン、ウ・ジャハン訳、クルハンアリ刊

 「習近平1人統治」時代を生きている中国の人々は、何を考えているのだろうか。大多数がもうすぐ米国を越えて世界最強大国になるという「偉大な中華民族復興」の熱望に満ちており、現実に対する討論と省察を忘れた「21世紀紅衛兵」に過ぎないのだろうか。

 2020年、中国の若者たちは『方法としての自己』という本に熱狂した。人類学者シャン・ビャオ(項飆、Biao Xiang)が書いたこの本はその年、20万部以上売れた。シャン・ビャオはこの本で大げさな話はしていない。むしろ、中国の若者は国家と民族の巨大な帽子を脱ぎ、自分と付近(周辺)に集中しなければならないと提案する。シャン・ビャオは「なぜ必ず国家的観点で世の中を見なければならないのか」という問いを投げかけ、「中国のディスクール(言説)が必ず必要だと感じるのは、もしかしたら自分の生活に自信がないためかもしれません。巨大な国家と民族の帽子をかぶっていれば安全だと感じるのでしょう」と指摘する。中国の若者たちは、なぜこういった話にこれほど傾倒したのだろうか。そこに彼らが口に出せない悩みが込められているのではないか。本書『周辺の喪失』は、『方法としての自己』とシャン・ビャオのインタビューおよび対談を韓国語に訳し、韓国の読者に紹介している。

 シャン・ビャオは国境と境界を越えてきた研究者だ。浙江省温州の埠頭労働者の村で教師の息子として育ち、1989年に天安門デモが流血鎮圧された翌年、北京大学に入学。1年間軍事教育を受けた。学部時代、北京に出稼ぎにきた故郷出身の労働者が集まって暮らす「浙江村」が、低価格の衣類の生産・販売基地へと変貌する過程を現場で研究し、『境界を越える村:浙江村物語』を書いた。この研究が世界的な注目を集めるようになり、オックスフォード大学に留学し、グローバルIT企業がインド出身の開発者を雇用する分業構造を研究して博士号を取得した。オックスフォード大学教授を経て、ドイツのマックスプランク研究所の社会人類学研究所長を務めている。

 シャン・ビャオは、現代社会は個人に対する没入と巨大な事件に関する大げさな論評ばかりを行き来するだけで、自分の周辺の世界を省みない自我を量産する「周辺の消失」を引き起こしていると説く。新自由主義的市場は、グローバルな取引の障害物をなくすために「周辺の消失」を引き起こす重要な要因だ。

 これを克服する方法としてシャン・ビャオが提案する「方法としての自己」とは、世界を具体的に理解する出発点として、各自が自分の経験を問題にしようということだ。この時の「自己」とは、内と外の境界が明確な個人ではなく、他の存在との関係を通じて毎回新しくなるネットワークのことだ。このような「方法」によれば、単一で巨大な中国というディスクールは意味がない。中国に対するこのような理解は素朴にみえるが、中国当局の国家主義に対する最も鋭い反論になる。「現在の矛盾をつかみ、この矛盾から出発して過去の矛盾にさかのぼればこそ歴史に辿りつくができ、歴史観を作ることができます。このような方法で辿りつけば、一種の関連性があり、安定し、中国という国家を単位とする歴史は必要なくなります。中国の歴史はおそらく途切れ途切れのように見えるでしょう。例えば、海南省の問題はマレーシアやタイに近づきます。(…)だから私は一つの安定した『中国の叙述』の存在にはあまり興味がないのです」

 国が宣伝・扇動する巨大なディスクールの殻を破って現実世界を見つめれば、全く違う中国が現れる。2020年の中国社会の流行語は、いくら努力しても良くならない現実を意味する「内巻」だった。シャン・ビャオは「紐で打ち続けなければ倒れてしまうコマのように、『自分を果てしなく急きたてなければならないコマ式の無限ループ』である内巻現象の裏には、脱出口を見つけられない高度な一体化された競争があると指摘する。1970年代末、改革開放が始まった頃、みな似たような状態だった中国人たちは、他者より遅れを取ることを恐れ、一度に市場競争に飛び込んだ。そのように14億人の人民は皆、たくさん稼ぎ、30坪余りの家と車を買い、必ず家庭を築かなければならないという一つの目標に向かって走ってきたが、いまや「(階層上昇の)終電が全て行ってしまったため」皆が不安に陥った。抜け出せない無限競争の中で中国人が経験する焦りついてのシャン・ビャオの上記のような解釈は、中国社会の裏側を理解させてくれると同時に、実は韓国人と中国人が極めて似通った現実と不安の中に投げ出された状態で、互いに誤解し憎みあっているということを気づかせてくれる。

 このような現実の中、中国の若者たちが愛国主義と中華文明論にますます呼応する理由は何だろうか。シャン・ビャオはこのように説明する。「東アジアモデルの語りは、私たちが一生懸命努力すれば経済が成長し、暮らしがより良くなるというものでした。ところが実際の状況、特に2010年代以降の若者の現実は、もはやこの語りを裏付けることができません」「彼らが置かれた現実から抜け出す幻想を提供するのが、まさに強大国についての空想なのです」。このように尊厳に傷ついた、特に経済的に厳しい若者たちが、フェミニズムやポリティカル・コレクトネス(PC)を攻撃対象にしたり、『小粉紅』と呼ばれる愛国主義者になったりしている。

 「習近平主席を中心に」一糸乱れず団結して米国に勝とうという国家イデオロギーがなぜ代案になり得ないのかを、シャン・ビャオはこのように述べている。「今、中国の主流の考えはオルタナティブな道を行くというのではなく、ただ権力を取りたいというものです。新しい『ワントップ』になりたいということです。基本的な考え方は米国と非常に似ています。私はこれが共同の理想を失ったことと関係があると思います。(…)自己を証明するということは、実は自己がないということなのです」

 国家と市場の論理に対し、失われた自己と周辺を回復することで新しい道を開こうとするシャン・ビャオと、彼に呼応する若者たちが見せる「中国」は、「習近平の中国」とは明らかに違うだろう。習近平3期目就任を確定する第20回中国共産党大会の直前、北京の大学街の歩道橋の上に「PCR検査ではなく飯を、封鎖ではなく自由を、嘘ではなく尊厳を…」という横断幕を掲げて命がけのデモを行った、そのような人たちにつながる道だろう。この本を、中国に住んでいる韓国人、韓国に来ている中国人留学生、台湾に留学中の韓国人学生が共同で翻訳したということも、同じ道を作っていく一つの方法であろう。

パク・ミンヒ論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/1065718.html韓国語原文入力:2022-11-04 09:55
訳C.M

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