(1のつづき)
同氏は1973年の二度目の訪朝で2人の妹とその家族に会い、最近では2016年、93歳の年に訪朝している。同氏は本書に「80年の光州民主化運動の直後に、在職中のロングアイランド大学に米連邦捜査局の要員が訪ねてきて『光州民主化運動には北朝鮮が関与していたのか』と尋ねてきた」と記している。彼の訪朝が知られるようになった後には、ニューヨークの韓国総領事館がロングアイランド大学にチ教授の罷免を強く要求したが、大学は「チ教授は米国市民なので韓国総領事館が関与すべきではない」と一蹴したという。「韓国領事館がロングアイランド大学の学長に私を左翼だと言ったため、学長は最後まで私を疑っていました。そのため、大学の主要行事に招待されないということもありました」
同氏が半世紀以上暮らすロングアイランドの北の海岸沿いの自宅は、画家のキム・ファンギ、キム・ヒャンアン夫妻、作曲家のユン・イサン、小説家のファン・ソギョンら韓国の著名な文化界の諸人士が好んで滞在した場所でもある。ユン・イサン氏は1970年代初め、ニューヨークに来るたびに娘の家より独身の彼の家の方が楽だと言って、いつも訪れていたという。「東ベルリン事件の後、ユン先生が我が家に長く滞在していたことがあります。その時、私も北朝鮮に行って来た後だったので、中央情報部が神経を尖らせていた時期でした。あの時は家の2階のトイレの窓を脱出口に決めておき、その窓をいつも開けて寝ていました」
1974年のキム・ファンギ画伯の死に際しては、キム・ヒャンアン氏の依頼で葬儀を主管したという。チ教授は本書に、キム・ファンギ夫婦と夜を徹して昔話に花を咲かせていた時、チ教授が詩人のイ・サンの話を何気なく持ち出すと、キム・ヒャンアンがすぐに顔色を変え「家に帰ろう」と言って夫とともに出て行ってしまったというエピソードも記している。その時はまだ、キム・ヒャンアンがイ・サンの元妻(ピョン・ドンニム)だったということを知らなかったのだ。その後、2年近くチ教授との連絡を絶っていたキム・ヒャンアンは、夫が手術を控えて入院した際にチ教授を訪ねてきた。後に葬儀主管まで依頼してきたという。
1970年代から半世紀にわたり、韓国の民主化と統一を願う様々な団体で活動してきた同氏に、ここのところ冷え込んでいる南北関係についての意見を求めると、次のような答えが返ってきた。「南と北は一つの民族であり、一つの国ではありませんか。共に生きるべきです。平和的に統一するのが願いです」
チ教授はニューヨークで10回あまり展示会を開いた東洋画家でもある。同氏が生涯にわたって描いてきた、淡い色彩で造形美も目を引く150点あまりの絵のほとんどが回顧録に掲載されている。パク・チュンニョンさんは「韓国で展示会を行うことと、作品が韓国や米国の有数の美術館に常設展示されるのがチ先生の最後の夢」だと語った。
回顧録には「私の永遠の恋人チェ・ユネ」と題する文章がある。彼が朝鮮戦争の2~3年前に知人の紹介で出会い、米国留学中の1957年まで縁を保ち続けた梨花女子大学のチェ・ユネ元教授についての文章だ。2人はデューク大学で共に学位課程に在籍していたが、チェ教授が先に修士号を取得して帰国したことで、2人は「牽牛と織姫」になってしまったという。チ教授は故国訪問規制が解除された1997年に訪韓し、40年ぶりにやはり独身生活を送っていたチェ教授と再会した。2002年の訪韓時には視覚障害者となていった元恋人を見て罪の意識を感じたという。6年前に電話で訃報を聞いたという。チ教授は学業などを理由にチェ教授との結婚を急がなかったことについて「心が痛み、後悔している」と話した。
本になった回顧録を見た感想を尋ねると、同氏は「私にこんな資格があるのか、恐縮だ」と答えた。同氏は本書に、人生は「美しい花を拾いながら歩く道」だと記した。インタビューの最後に「良い人生」について尋ねると、彼は答えなかった。代わりに「子どもがいる人たちがうらやましい」と語った。
「長年の独身生活から来る(チ・チャンボ)先生の微妙な『孤独と自由』の雰囲気を…」。作家のファン・ソギョンがチ教授に送った手紙の一部だ。回顧録のタイトルになぜ孤独と自由という単語が入っているのかを教えてくれる。(了)