本文に移動
全体  > 文化

[書評]殺人鬼を善良な証言者にした「撫順戦犯管理所の奇蹟」

登録:2020-01-18 12:51 修正:2020-01-20 10:43
「謝罪しなければ人間ではない」
撫順戦犯管理所日本人戦犯の生涯を扱った「大河ドラマ」 
731部隊生体実験・虐殺・戦時性暴行告白… 
孤立と殺害の脅威に怯まず生涯贖罪
土屋芳雄が1990年6月、自分が逮捕した抗日英雄の張恵民の4番目の娘である張秋月夫婦に会って謝罪している。背が見えている人たちの中の右側が張秋月=西海文集提供//ハンギョレ新聞社

『私は戦争犯罪者です』 
キム・ヒョスン著/西海文集・1万9500ウォン

『私は戦争犯罪者です』(キム・ヒョスン著/西海文集・1万9500ウォン)//ハンギョレ新聞社

 傀儡満州国時代に数多くの抗日活動家を捕えて悪名を馳せた日本人戦犯の土屋芳雄(1911~2001)は「取り調べの神」と呼ばれた。日帝憲兵時代、満州国で直接的・間接的に殺したのは328人、逮捕して拷問し監獄に入れたのは1917人に至った。1990年、土屋芳雄は自分が逮捕して死に追いやった中国人抗日英雄の張恵民の娘の前で大粒の涙を落として言った。「謝罪しなければ私は人間ではないです」。民間人3000人を虐殺した1932年の平頂山事件の加害者だったもう一人の日本人戦犯は、3歳の時に家族を目の前で失った被害者の前でひざまずいた。「私の罪を知っています。私のような人間は生きている資格がないです。千回、万回死んで当然です」。

 1956年、日本に帰還し始めた戦犯数百人は、日帝侵略の証言者として立ち上がり、血がにじむ声で反戦平和を叫んだ。日本社会は「洗脳された人」「アカ」というレッテルを貼り、差別と冷遇を止めなかった。就職に挫折し、時には殺害の脅威にも襲われた。しかし彼らは「証言しなければ生きている理由がない」と団体を設立して真実を知らせる運動を続けた。一体、彼らに何があったのだろうか。

 1950年7月19日、ソ連を出た貨物列車が中国の綏芬河駅に入って来た。列車に載せられた貨物は「殺人鬼」と呼ばれた日本人戦犯たちだった。969人の日本人は厳しい警備態勢に緊張して「生きて帰れることはありえない」と絶望した。撫順監獄は中国と朝鮮の抗日運動家を投獄して残忍な拷問を行った日帝の近代監獄だったからだ。そんな監獄を中国は大々的に手入れをして、新たに暖房装置を設置して日光を浴びることができるように窓を広げ、図書館、大講堂、病院、風呂場も新たに設けた。「撫順戦犯管理所」の誕生だった。

撫順戦犯管理所で戦犯たちの自発的告白を誘導するために開いた全体集会の場面=西海文集提供//ハンギョレ新聞社

 周恩来首相は戦犯の人格と習俗を尊重せよとして細かい指示を下した。そのため戦犯たちは米飯を食べて管理所職員は麦飯を食べる珍しい光景が広がった。正月には餅を、後には日本人の好みを考慮して寿司まで配膳した。捕虜を人道的に待遇するという方針は、中国工農紅軍(紅軍)時代に始まったことだった。党代表である毛沢東は紅軍の軍紀を決めようとして1928年に「三大規律、六項注意」を制定したが、後に八項に変わった「注意」の中には「人を殴ったり悪口を言ってはならない」「捕虜を虐待してはならない」などが含まれていた。学習で罪を悔やんで変わる者には寛大に対処するという原則が戦犯改造政策の中心だった。実際には命をかけた思想の対決であり、当局は戦犯たちに「苦悩に満ちた激烈な自己闘争の末の深刻な反省」が続くように誘導した。初めは傲慢に振舞って報復を誓った戦犯たちは、熾烈な討論の末に日本帝国主義が対内的には圧迫と搾取、対外的には侵略と拡張により維持されていたという認識を得て罪を告白した。遂に1956年6月、特別軍事法廷で撫順の戦犯を含む収監中の戦犯約1000人中45人だけが起訴されて有罪判決を受け、大部分は不起訴処分で釈放された。死刑囚も、無期刑もなかった。禁固という寛大な処分に加害者たちは安堵感と罪悪感が入り混じった熱い涙を流した。

瀋陽特別軍事法廷の被告席に立った日本軍師団長たち。鈴木啓久中将(前列右側)と藤田茂中将(中央)=西海文集提供//ハンギョレ新聞社

 特に撫順戦犯管理所の改造作業にはキム・ウォン、オ・ホヨン、チェ・インゴルの朝鮮族3人の活躍が目立った。なかでも管理所2代目所長を務めたキム・ウォンは、戦犯改造作業が「自分自身に対する教養でもあった」と明らかにするほどに熱誠的だった。中国帰還者連絡会(中帰連)の招請で1984年10月に日本を訪問したキム・ウォンは、二つの集団の信じられない友情について「古今東西を通じて珍しい事であり確実に奇跡」だと語った。この時の歓迎行事の規模は極めて大きく参加者は600人を超え、当時の出会いを扱った手記集『28年ぶりの再会』(1985)には250人の手記が載せられた。

 韓中日で発刊された手記と回顧録、論文と報告書、定期刊行物や映像資料などの史料を精巧に築き上げた『私は戦争犯罪者です』(西海文集)は、でたらめが少しもなく緻密でしっかりした内容だ。最大の成果は、加害と被害、謝罪と容赦、国家と個人の間を行き交う複雑な真実と張りつめる緊張感を表した点だ。日本人戦犯たちは満州国の行政・司法人材、軍人、警察、関東憲兵隊などであり、731細菌戦部隊の関係者もいた。戦犯に人間的待遇をしなければならない管理者の苦労は、到底言葉に表せなかった。寛大な国家的寛容がありはしたが、裁判の過程で被害者たちは「裂いて殺しても私の方は気が済まない」と戦犯たちの目の前で怒りを噴き出した。中央の寛大な処理方針が伝達されると、すぐに検察と戦犯管理所の幹部は集団で反発して周首相に再考を要請した。戦後処理過程の複雑な脈絡が明らかになる部分だ。

「軍国少年」として職業軍人を夢見た三尾豊。人生の末年に季刊誌『中帰連』への多額の資金援助をするとともに右派保守メディアの侵略戦争否認と露骨な歴史歪曲を猛非難した=西海文集提供//ハンギョレ新聞社

 歴史の大きなアイロニーは戦犯が帰国した後に起きた。生きて帰った彼らが、残酷な生体実験や民間人虐殺のような日帝の蛮行を証言して記録し始めたのだ。1957年に設立された中帰連の活動や各種の手記のおかげだった。撫順に収監された戦犯15人の手記を載せた『三光』(1957)は二カ月間で20万部が出た。これらを『自虐史観』『日本罪悪史観』と非難した守旧右派は、新しい歴史教科書を作る会(つくる会)を発足して南京虐殺と日本軍「慰安婦」動員の強制性を否定した。これに対抗して会員らは1997年に季刊誌『中帰連』を創刊して立ち向かい戦った。

 会員の三尾豊(1913~1998)は、季刊誌の発行に多額の資金を支援し、右派に対して「戦争を知らない彼らが何の資格をもってで評論するのか」と言い、「ファシストや右翼に対する闘争の武器は侵略戦争を犯した私たちの罪行を突き付けること」だと語った。人生の終わりまで罪の償いを尽くそうとした彼は、「731部隊、南京大虐殺、無差別爆撃」の中国人犠牲者遺族が1995年に提起した賠償訴訟で原告側証人になった。2000年に東京で開いた日本軍「慰安婦」裁判のための女性国際戦犯法廷に証人として出た2人も中帰連会員だった。731部隊の少年隊にいた篠塚良雄は、地方公務員として働き定年退職した1984年頃から全国を回って戦争犯罪を告白した。彼は中帰連の記念碑建立に大きな力を与え、1998年に米国とカナダで731の蛮行を証言しようとしたが、シカゴ空港で入国不許可となり追放された。731部隊を証言しに来た証人を戦犯として米国が入国監視者名簿に載せたのだ。

 著者のキム・ヒョスンは、20年余りの間韓日関係と東アジア問題などに取り組んできたジャーナリストで、今回の本はシベリア抑留者を扱った前作『私は日本軍、人民軍、国軍だった』(2009)、朝鮮人親日討伐部隊を扱った『間島特設隊』(2014)との三部作になったと言える。3冊を一緒に読めば、知られざる東アジア現代史を理解することに役立つだろう。

1964年、撫順戦犯管理所職員たちと記念撮影をしたキム・ウォン(最前列中央の黒い服)。慶北奉化出身のキム・ウォンは撫順戦犯管理所所長として献身的に働いた=西海文集提供//ハンギョレ新聞社
中帰連会員たちが書いた『三光』の出版記念会。1982年8月=西海文集提供//ハンギョレ新聞社
季刊誌『中帰連』2002年冬号表紙に載った土屋芳雄(右側)。土屋は傀儡満州国で犯した悪事を詳細に記録した『ある憲兵の記録』を残した=西海文集提供//ハンギョレ新聞社
中国帰還者連絡会が1988年撫順戦犯管理所の敷地に建てた謝罪碑//ハンギョレ新聞社
日本の侵略戦争歪曲の傾向が激しくなると直ちに中国が2014年にネットに公開した日本人戦犯自白書//ハンギョレ新聞社

イ・ユジン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/924731.html韓国語原文入力:2020-01-17 08:40
訳M.S

関連記事