美少年の顔はそのままだった。生まれて1400年をはるかに越えた仏像は、歳月のために金色の本体のあちこちに緑青が入り込んではいたもののの、鼻筋、目、口の柔和な線が作る微笑は、昔のままさわやかだった。宝瓶を持ち腰をひねった、凛々しい姿もまた乱れることなく美しい趣きを保っていた。
華麗だが奢侈ではないという華而不侈の美徳を持った百済芸術の最高絶頂を見せる仏像が目の前に立っている。昨年末、韓国の美術史学者が日本で約90年ぶりに所在を確認し、真品であることを確認した韓国仏教彫刻史の最高傑作である百済金銅観音菩薩立像が再び世人の目の前に現れた。
日帝強制占領期間(日本の植民地期)に朝鮮に暮らしていたコレクターの市田次郎氏から仏像を譲り受けた現在の日本人所蔵者が、今月初め、東京現地で国内外の報道機関のうち最初にハンギョレに金銅観音像を公開した。所蔵者が実見の場所として教えたのは、東京の繁華街である有楽町付近のある高級ホテルの客室。中で待っていた所蔵者側の実務者が、記者が入るとすぐに木箱に入った28センチの観音像を慎重に取り出し、そばのテーブルに立てて見せてくれた。まず目についたのは、最も美しい百済の微笑を浮かべているという百済観音像の顔の表情と、頭の上の3つの宝冠だった。真ん中の宝冠に小さな仏様(化仏)が座っている。観音像であることを示す典型的な兆候だ。はやる気持ちと緊張をこらえて上半身に目を通した。所蔵者側は、最近撮った仏像の動画もハンギョレに示した。
実見の過程で最も印象的だったのは、多くの表面の緑青にも関わらず、変わらず保存された少年のような微笑の生々しさと足を曲げて腰をひねった三曲姿勢の肉感的な雰囲気だった。きわめて精巧な細工で、顔の細部要素を微細に削って作られたこの仏像の微笑を浮かべた表情は、実際に見ると、慈しみ深い印象と同時に、若者の元気で新鮮な活気が自然な造形の中に共に宿っていることが感じられる。過去に公開された写真では、女性のような印象を受けたが、実際に近くで見れば見るほど、少年や青年のような印象を受けるのは、微笑のさわやかさと堂々とした姿勢が相まって目に映るためだろう。
仏像の横と後ろ姿にゆっくり視線を移動した。右脚を軽く曲げて腰をひねった三曲姿勢の真髄を鑑賞できた。28センチもあるかなり大きな百済金属仏像だが、思わずぞくっとする程に後ろ姿と横からの姿は肉感的に迫ってきた。
胸部と腹部で天衣の裾をつなぐ6~7世紀仏像装飾の核心要素である瓔珞(ようらく)は、残念なことに両側が破損していた。破損した跡にも厚い緑青が広がっていたことから見て、遠い昔に土中で破損して無くなったことが明らかだ。この仏像は、土に埋められる前、どんな風霜を経たのだろうか。今となっては永遠に分からない。
あらゆる方向から眺めたが、ただ見るだけでは物足りなかった。所有者側の実務陣の協力を得て、仏像を手に載せてそっと持ってみた。量感がものすごかった。掌に仏像の屈曲を感じつつ持ってみたが、がっしりとして一杯の重量感が伝わってきた。これはまさに仏像のモデルになった百済の青年の心、ひたすら信仰心で仏像の顔とからだを鑿で削り刻んだ百済職人の誠心に充ちた誠意の表現ではないか。
現場で会った所有者側の実務者は、韓国政府が最近仏像調査実態調査団を派遣するなど、還収交渉のために相当な意志を見せていると話した。実際、文化財庁によれば、ハンギョレの取材に先立ち韓国国立中央博物館と文化財庁の専門家で構成された実態調査団が、今月3日に東京を訪ね所蔵者側の協力で仏像を実見し、真偽と保存状態を判別する調査を行い、これを土台に最近博物館側が文化財庁側に「100%真品」という公式判定結果を通知した事実が確認された。
博物館側はまた、この金銅仏像の出土地が世間の記録で知らされた忠清南道扶余(プヨ)以外の国内の別の場所である可能性も提起し、還収後に精密な細部調査が必要だという見解も表わしたと文化財庁側は伝えた。実際、この仏像は1907年に忠清南道扶余の窺岩里(キュアムリ)で一緒に出土したと伝えられる国宝293号百済金銅観音菩薩立像とは様式的な差が大きく、慶尚北道善山(ソンサン)で出土した2点の金銅観音立像と造形的系譜が関連するという評価が出てきて、出土地をめぐる疑問が今後この仏像の研究で争点に浮上するものと見られる。公式に真品通知を受けた文化財庁側は、先週から国際協力課を中心に所有者側と購入価格を調整する交渉手続きの準備にすでに着手した。文化財庁の別の高位関係者は「定期国会が開かれる9月前までに交渉を終え、還収することが基本的な目標」と伝えた。