事故で漂流して韓国に来た北の漁夫
抱き込みにかかった 韓国情報要員に「北に帰して下さい!」
二者択一思考の世に向けた批判と隠喩
スクリューに網が絡まってしまい、小舟で南に漂流してきた北朝鮮漁夫の至極単純な一言の頼みごと 「私を北へ帰して下さい」をヘッドコピーにしている『網』は、そのコピーほどに単純に見える最初の場面で始まる。 夜明け、初仕事に出かける漁夫は幾品もない粗末なおかずで朝食を取る。 「あなたは夜明けが一番素敵に見える」と言う妻の言葉に彼は妻を抱く。 ひどく貧しい感じの窮屈な一間部屋の隅から、幼い娘が寝た振りをしながら夫婦を盗み見る。 壁に貼った「将軍様の家族」という赤い字のスローガンと金日成、金正日の肖像画が彼らを終始見下ろしている。 しかしそれは漁夫にとって、特にこれといった意味を持つものではないようだ。ちょっと誇張を加えて言うならば、それは若干独特な壁紙に近い。
誰が網を動かすのか
そして漁夫の食べるご飯は白米のご飯だ。 漁夫の暮らしは富裕や豊かといった単語とは全く程遠いが、だからと言って逼迫だとか飢餓線上といった単語に近接しているわけでもない。 映画はそのように漁夫の日常を黙って見せてくれる。 そうだ。 北朝鮮の漁夫にも日常がある。 それは、単純に見えるけれども私たちがしばしば忘れている、或いは目を背けようとしている事実、そしてこの映画が実際に一番注目している事実だ。 北朝鮮にも日常がある。
映画はそこで 一つ「もしも」を投げ入れる。 もしもその漁夫が北朝鮮での自分の日常に満足していて、そこから離れる気ががないならば?
まもなく漁夫の小舟のスクリューには網が絡まり、漁夫は南に向かって漂流する。政治的意図どころか意図そのものすらない事故だ。それもまた日常の一部分である。しかし漁夫の日常はそこまでだ。韓国情報当局に引き渡されてからは、「私を北へ帰して下さい」という日常的な頼みごとはもはや政治的要求に変調されてしまう。 漁夫は自分の意図と意志が何の力も発揮することのできない世界に足を踏み入れた。たった1歩の中立地帯もなく、すべてが南と北、左と右、青と赤、光と陰、正と悪、正義と不義、そして何よりも敵と味方に分けられているこの誤った二分法の世界で、漁夫は禁じられた線を越えた。その瞬間、漁夫は網に触れ、網を持っている手は動き始める。漁夫は日常から足を踏み外した代償として、カフカ的迷宮に落ち込む。漁夫は今や魚だ。
好き嫌いがはっきり分かれるキム・ギドク監督式の洞察
映画はその網そのものと網を動かす手に集中する。ソウルに向かう護送車の中で主人公 ナム・チョルウ(リュ・スンボム扮)は目を開こうとしない。 韓国情報局の要員たちはナム・チョルウの目を開かせようとする。韓国で一番高く世界で五番目に高い建物の傍を通る時、彼を驚かせ感動させたいと思う。文字通り、開眼させたいと思う。
「北朝鮮の偽りの宣伝とは異なる韓国のまばゆいばかりの発展した姿」といった言葉に代弁されてきたその開眼への熱望と確信は、情報局に着いてからも続く。 若い末端職員オ・ジンウ(イ・ウォングン扮)はナム・チョルウが着ていた (韓国だったらホームレスでさえ着ないような) みすぼらしくもごつい感じの防寒服の代わりに、最近最もホットなブランドのトレーニング服を誇らしそうに差し出す。そこには私たちの多くが暗に抱いているかも知れない優越感が敷かれている。優越感は最新ブランド、高層建築、大韓民国最高の、世界で五番目の、といった単語によって支えられている。 その中で、いざ「自分の物」と呼ぶことのできるものはないということに、オ・ジンウはまだ気が付いていない。よって彼は 「どうして他人の服をむやみに捨てるんですか」というナム・チョルウの反発がわけが分からず戸惑う。彼の優越感は、家族との日常、すなわち本当に「自分の物」と言えるものを取り戻そうとすることしか考えていないナム・チョルウの単純な熱望の前に、簡単に揮発してしまう。そのようにして、ナム・チョルウを開眼させようとしていたオ・ジンウの開眼が逆に始まる。それは、ずっと以前に自足的安穏を誇示的優越感と取り替えてしまった私たち自身の開眼でもある。
「15才以上観覧可」の判定に一層注目
キム監督は「幸いだ。ありがたい」と言うが
むしろ優越感にとらわれた大人のための映画
しかしこの若い情報局職員オ・ジンウというキャラクターは、事実上極めて非現実的なキャラクターだ。私たちは、それほど簡単に「信念」の搖らぐような人物がそもそも情報局の職員になり得ると信じるほど無邪気ではない。さらにキム・ギドク監督の映画でしばしば登場する文語体式直説法のセリフは、その非現実性をいっそう浮き彫りにする。しかし映画はオ・ジンウとは別の現実的なキャラクター、すなわち(1)入ってくるなり「見るからにスパイのような顔だな」という脅しの効いたセリフから始めて、スパイ作りまたは 「潜在的スパイ」の摘発に一路邁進する暴力調査官(キム・ヨンミン扮)と(2)「いくら何でも独裁国家に送り帰すというのはあまりに残忍じゃないか」という人道主義的確信の下に当事者が何と言おうと「自由大韓」の懐への転向を最後まで推進するよう催促する高位責任者(パク・チイル扮) なども備えておいた。 (これらのキャラクターを “現実的”と見る根拠は、最近封切られた特別調査報道のドキュメンタリー映画『自白』でも詳しく追跡されている韓国情報局のスパイ捏造事件がまさに現実の事件であるからだ。ご存知のとおり最近でもこのような企図のために大統領の遺憾表明まであったが、その具体的な内容はこのコラムの主要分野ではないので省略する。)
ところで実のところ、情報局の拷問職員から南派スパイまで、これらのキャラクターが現実において実際に存在するか否かは核心ではないだろう。キム・ギドク監督のすべての作品は基本的に寓話であり、そういう面でこれらの人物がどれほど現実に忠実に描写されているかよりは、これらの人物の葛藤と緊張が我々の現実をどれほど正確に隠喩しているかが核心だろう。
このような点で、スポイラーになってはと気になってその具体的な内容までは到底申し上げられない後半部でこの映画が志向している地点は、今までの “政権批判的” 映画が触れなかった(或いは全く見ようとしなかった) 境界線を軽く飛び越える。そして映画は特定政権ではない権力そのものに対する批判にまで進む。
そうだ。『網』が成し遂げた最大の成果は、どこに行っても私たちを支配している二者択一思考の世界を、最も極端な二者択一思考の支配する世界である「韓国対北朝鮮」の世界を通して解体しつつあるという点である。「両極端はお互いに通じる」という警句もあるように、『網』が見せてくれる南北の姿は、権力という電圧を維持するためのバッテリーの両極である。具体的な現実よりは人間存在に対する探求あるいは社会と個人の緊張と葛藤に主に焦点を合わせて来たキム・ギドク監督の以前の映画とは違って、朝鮮半島の具体的現実を扱っているという点で『網』はかなり転換点的な映画と評価されているようであるが、意図されたにしろされなかったにしろ、この映画もやはり集団と権力と個人の存在方式、すなわち人間の存在方式に対する、また一つのキム・ギドク式洞察となっている。そしてそれは今までと同様、容易に頭から抜けていかない響きを残す。
「居心地の悪かった」キム・ギドクの緩衝地帯
何しろ辛くてしょっぱい映画的刺激がずらりと並ぶ最近では事情が少々変わっているかも知れないが、それでも依然としてキム・ギドク監督は韓国で「好む・好まない」 が一番はっきりと分かれる監督の一人である。リュ・スンボムという俳優の知名度と信頼感がその両極の緩衝地帯の役割をしているのは、映画にとって幸いな事だ。もしか普段キム監督の作品素材や表現がしばしば呼び起こしていた “居心地の悪さ” あるいは “不快さ” のために「好まない」の方に属しておられたなら、『網』の15歳以上観覧可の等級に注目して見られるのもいいだろう。ある監督は自分の映画が15歳以上の等級判定を受けた時「私の映画がそんなに幼稚なのか?」と周囲に聞いて回ったと言っていたが、意外にキム・ギドク監督は今回の等級判定について「幸いで、ありがたいことに…」という言及までしている。
何だろう。 もしかして、これは十年以上も韓国映画の上空を覆っている一千万映画ゴールドラッシュの熱波がキム・ギドク監督すらもふにゃふにゃに溶かしてしまった結果かと言えば、そんなはずは毛頭無く、「我が国の青少年が私たちの悲しい現実を理解し、自分たちの未来を守ることができるように深く考えてみる機会になったらと思う」というのがこの 15歳観覧可等級歓迎に関する監督の弁である。
しかし実は『網』は、青少年よりはむしろ 18歳以上の大人が観覧すべき映画だ。この映画を通して、私たちの日常をいっぱいに満たしている数多くの二者択一思考とその境界線として編まれた網の存在を確認していただきたいという言葉をもって、『網』についての鑑別所見に替える。
韓国語原文入力: 2016-10-07 19:08