原文入力:2009-06-17午前11:22:23
[イ・ドギル 主流歴史学界を撃つ]⑥三国史記初期記録は操作されたか?
←6次教育過程の旧国史教科書の付録 ‘歴代王朝系譜’。新羅は奈勿王(在位356~502)から在位年代を記録しているが、この時に新羅が事実上建国されたという意味だ。何と400年以上の新羅史が否認されているのだ。
韓国史学界主流の定説中の一つがいわゆる ‘三国史記初期記録不信論’ だ。<三国史記>初期記録はキム・ブシクが虚偽で創作したものであり、歴史的事実の記録ではないという内容だ。現行<国史教科書>に三国の始祖が脱落しているのもこういう史観の反映だ。第7次教育過程以前の<国史教科書>は付録の ‘歴代王朝系譜’ から三国初期国王たちの在位年代も削除していた。高句麗は第6代太祖王(53~146)から在位年代を記録してあり、百済は第8代古爾王(234~286)から、新羅は一層飛ばして第17代奈勿王(356~402)から在位年代を記録していた。
“任那日本府の話がないので操作史料”
朝鮮史編集会 津田左右吉 主張に
不正確な ‘東夷列伝’ そのまま受け入れ
主流学界, 教科書から三国史始祖 除く
<三国史記>は新羅の建国年代を紀元前57年、高句麗は紀元前37年、百済は紀元前18年と記録しているにもかかわらず信じられないということだった。7次教科課程の<国史教科書>からはそれ以前は王たちの在位年代も収録していたが、主流史学界が自分たちの古代史認識の問題点を反省した結果ではない。韓日歴史共同研究委員会に参加した教育部官僚らがこの問題に対する問題意識を感じ強力に要求した結果やむをえず受け入れた結果であった。この過程で初期王たちの在位年代を脱落させたまま印刷した一部<国史教科書>を廃棄処分する騒動まであった。歴史学者らが教育部官僚より低次元の歴史意識を持っているということだ。こういう騒動を経て、現行<国史教科書>の付録には三国初期国王らの在位年代が入ったが、本文叙述では相変らず初期国王らの存在が否認されている。高句麗は太祖王,百済は古爾王,新羅は奈勿王の時に事実上建国したと叙述しているのだ。現在国立中央博物館の考古館には ‘原三国室’ という展示室がある。<韓国民族文化大百科事典>は原三国時代に対して「西暦紀元を前後した時期から300年頃までの約3世紀間を言う」と説明している。この期間は三国は存在しないか、またはとても小さな部落単位に過ぎなかったと見ているのだ。それで、該当時期の遺物が出土すれば三国の遺物とは言わず原三国だと分類するのだ。三国史記初期記録不信論の考古学版が国立中央博物館の原三国室として親父(三国)を親父とも呼べなかった日帝時代が続いているような錯覚に陥る。はなはだしきは三国史記初期記録を引用した論文は通過させないことが学界の常識であるほど史学界主流で三国史記初期記録不信論はドグマになった。
三国史記,編年体なので操作難しい
←伽耶の‘馬胄’。日帝は伽耶を古代版朝鮮総督府の任那日本府と主張したが、反対に伽耶が古代日本を支配していたという物証が次から次へとあらわれ、現在では一部国粋主義者を除いてはそのような主張をできずにいる。
ところでこういう三国史記初期記録不信論を初めて創案した人物は朝鮮史編集会の植民史学者,津田左右吉だ。彼は<古事記及び日本書紀の研究(1919)>の付録の ‘三国史記の新羅本紀について’ で、三国史記初期記録不信論を最初に主張した。しかし、これは<三国史記>に対する綿密な研究の結果として出てきた理論ではなく、日本古代史書である<古事記>と<日本書紀>の研究の付随物として研究した結果に過ぎない。津田左右吉は<古事記> <日本書紀>の倭関連記録と<三国史記>の倭関連記録が互いに食い違っていることを発見した。2つの内1つは事実と違うように政治的目的によって操作されたということだ。津田左右吉は<日本書紀>の14代仲哀天皇までは神話時代の天皇であり、後代人によって操作されたものとし、15代応神天皇からが実在した国王だと主張した人物だが、同じ定規を<三国史記>にも突きつけたのだ。しかしギリシャ・ローマ神話のような<古事記> <日本書紀>等とは異なり、<三国史記>は紀伝体形式の編年体史書であるため操作だと主張するのは容易でなかった。そこで彼は ‘三国史記新羅本紀について’ で「<三国史記>上代部分を歴史的事実の記載と認定し難いということは、東アジアの歴史を研究する現代の学者らの間で異論がないので、倭に関する記載もやはり同様に史料としては価値がないと見なければならない」と主張した。自身が初めて三国史記初期記録不信論を主張しながら、多くの学者らの支持を受けているように偽装したのだ。もちろん、当時も今も植民史学者らとその後えいたちは<三国史記>初期記録を操作だと考えている。
←いわゆる原三国時期の鉄製武器。 鉄製武器の出現は古代国家成立の指標と解釈するのが世界考古学界の通説だが、韓国では紀元前1世紀から西暦3世紀まで新羅と百済は部落水準に過ぎなかったとして、あえて原三国という枠組みに閉じ込めて説明している。
津田左右吉の話の中の核心は ‘(<三国史記>の)倭に関する史料もやはり史料として価値がない’ ということだ。彼が同じ文で「(<三国史記>には) 4世紀後半から5世紀にかけて ‘我が国(日本)が伽耶を根拠にして新羅に到達した’ という明白な事件がほとんど現れない」と書いたように、韓半島南部には古代に倭が設置したという任那日本府が存在するべきなのに<三国史記>にはそのような跡が全く見られないという意味だ。彼が<朝鮮歴史地理>で「(韓半島)南側のその一角に地位を占有していたのは我が国(倭国)であった。弁辰の一つの国である加羅(カヤ)は我が保護国であったし、任那日本府がその土地に設置されていた」と書いたように津田の関心は任那日本府であった。だから津田は ‘三国史記新羅本紀について’ で「<三国史記> ‘新羅本紀’ 上代に見える外国関係や領土に関する記事はすべて事実ではないと理解される」と批判した。任那日本府が見あたらないために<三国史記>の ‘外国関係や領土’ 関係記事がすべて操作されたものという主張だ。彼の論理中には「赫居世の建国を甲子年(BC 57)としたのは干支の開始を合わせたもの」であるからにせ物という主張まである。新羅が甲子年に建国されたと書いたことが操作の証拠という意味であり、あえて反論する必要さえ感じられない低劣な水準だ。津田左右吉が<三国史記>初期記録を否認する一貫した理由はただ一つ<三国史記>に任那日本府が記載されていなかったためだ。<三国史記>に任那日本府が出てこないばかりか<三国史記>記録のように韓半島中南部に強力な古代国家である新羅と百済が存在したとすれば任那日本府が存在できないために<三国史記>を否定したのだ。
<三国史記>を否定しなければならなかった津田の目にぱっと入ってきたのが陳寿の<三国志>東夷列伝 韓條だった。<三国志>韓條は ‘馬韓は54ヶ小国,辰韓と弁韓は各々12ヶの小国で都合78ヶ小国がある’ と<三国史記>とは違う記述をしているためだ。陳寿はこの文で「韓は帯方の南側にある」と書いたので帯方郡の位置次第で三韓の位置も変わることができる。しかし津田左右吉は帯方が韓半島にあったとし、三韓もすべて韓半島南部にあったと前提して論理を展開した。韓半島南部が78ヶ小国に分かれていたならば、任那日本府が存在しうるという考えで<三国史記>初期記録を抹殺した席を<三国志>韓條で対置させたのだ。津田は「韓地(韓半島)に関する確実な文献は現存するものとしては<三国志> ‘魏志’の韓伝とそこに引用された魏略が最初のものだとし、それによれば3世紀の状態が明らかになった」と<三国志>が中国3世紀,三国時代(220~265)に対する記述なので、その韓條も当然に3世紀の状況を反映したものだと主張した。これをそのまま受け入れれば、3世紀の韓半島中南部には強力な古代国家新羅・百済ではなく、78ヶの部落単位小国が群がっていたことになる。しかし陳寿の<三国志>東夷列伝は濊国を説明しながら ‘今朝鮮の東側がすべてその地域だ」と叙述している。西暦3世紀ではなく、古朝鮮が滅亡する前の紀元前2世紀以前の状況を記録した一節だ。もちろん3世紀の状況を記録した一節もある。このように<三国志>東夷列伝は陳寿が不正確な伝聞に基づいたり整理されていない史料を使って書いた不正確な記録に過ぎない。解放後、韓国主流史学界は国史教科書から任那日本府という話は抜いてしまった。それなら<三国史記>初期記録は生き返らせなければならないのに<三国史記>初期記録は一貫して否定し<三国志>東夷列伝を経典とする愚を冒している。現行<国史教科書>の ‘色々な国の成長’ 部分には ‘扶餘,高句麗,沃沮と東濊,三韓’ の順序で記述して ‘新羅と百済’ を脱落させた。陳寿の<三国志>東夷列伝の ‘扶餘,高句麗,東沃沮,挹婁,濊,韓(三韓)’と同じ順序の記述だ。津田左右吉が<三国志>東夷列伝にかこつけて<三国史記>初期記録を否認した植民史観が<国史教科書>にそのまま生きているということだ。解放されて60年をはるかに過ぎたのに大韓民国で朝鮮史編集会は果たして解体されたのか尋ねざるをえない。
ハンガラム歴史文化研究所長