すべての合成されたものは儚い。 この世のどこに合成されず自らから由来して、自ら永遠なものがあるだろうか。 灰色の冬空にゆっくりと浮かんでいるあの真っ黒な雲の形は象のようだが、少しすると巨人に変わって、またいつのまにか美しい女の顔になる。 そうするうちにシベリアから吹いてくる凍りそうな風に吹かれれば白い雪となってこの地に飛び散るだろう。
映画<弁護人>最後の字幕が流れ終わって、ポップコーンとコーヒーの臭いが充満する映画館を出て、夕方の空を見上げる。 商業高校を卒業した肉体労働者が司法試験を目指し、判事になり、金を稼いでみようと不動産登記まで追い求めた俗物弁護士から、拷問でアカを作り出す現実に立ち向かい闘士として乗り出すまで、映画は盧武鉉の‘弁護士時期’を描いている。 あたかもあの灰色の空で絶えず姿を変える雲のような彼の人生、いやまさに私たちの人生を。
私たち皆は盧弁護士の<弁護人>以後の人生も全て知っている。 国会議員となって、聴聞会で全斗煥に向かって名札を投げ、地域感情に対抗して選挙で落ち続けた。 曲折の末に大統領になって、そして自宅の後方の山の岩から身を投げるまで。
ところで<弁護人>はかっきり1987年までで終わるから、それ以後の彼の生き様に対して同意しない人々もこの映画を持ってそんなに興奮することはない。 ‘1987年までの盧武鉉’を偏見を持たずにただ映画として見れば良いことだ。
それで、この映画は久しぶりに私に希望と安らぎを与えてくれた。 あたかも<春香伝(チュニャンジョン)>を見たかのように。 ‘釜林(プリム)事件’裁判当時、学生たちがおぞましい拷問にあったことを格好良く暴露する盧弁護士は "暗行御史(隠密剣士)見参" を叫んで六面棍棒を持ち、悪漢使道(郡長)ビョン・ハクトに冥土からの使者のように駆け寄る李道令のようだ。 たとえその学生が懲役数年ずつを宣告され、労働者を助けた盧弁護士は拘束までされたとは言え、それでも映画はハッピーエンドだ。
たとえ現実では敗北したかに見えても、何が正義で不正なのかが客観的には明らかだと感じられた時期であったから。 映画を通じて瞬間瞬間には憤りが爆発したが、映画は本当に純真だった。
映画の中の裁判場面はこの頃も繰り返されている。先日の米国基地移転費用問題を提起してきた‘平和と統一を拓く人々’保安法裁判の時もそうだった。 利敵鑑定をした検事側証人は "自主、平和、民族大団結" という南北が合意した統一3原則に対しても問題と見なした。 朴正熙元大統領が合意したことであるにも関わらず誤ったことなのかと私が尋ねるとすぐに、それでも誤ったことだと。 それでは‘自主’をやめようということなのかと尋ねるとすぐに、同じく自主を言っても、それを話す人により利敵性が変わるのだ。 何を根拠に区別するかと言うと、"黙ってじっと見れば" 分かるのだと。 黙ってじっと見れば、アカかどうかが分かると?
映画<弁護人>の時期にはきわめて一部を除いては、判事であれ検事であれ、記者であれ、刑事であれ、自分が誤っているということは知っていた。 今は?
正義は消えて組み分けだけが残った。 孔子様が来られて孔子の話をしても‘お前はどっちの側だ’と鞭打たれる状況だ。
映画の中のソン・ガンホは現実の盧弁護士ほどには野暮ったくなく、盧弁護士よりむしろ弁護士らしい。 かなり以前に彼(盧武鉉)と食事をしたことがある。 映画の中に出てくる盧弁護士のヨットの話や、‘女’の話が保守雑誌に絶えず取り上げられていた時期だった。 "盧先輩、‘レイバン’(サングラス)かけて獎忠洞(チャンチュンドン)の某ホテルで女に会われるんですって?" "キム弁護士、私はあまりにも野暮ったく生まれたので、目立ってレイバンかけても皆に分かってしまう。"
映画<弁護人>の後に続いたあの冬空を漂うはかない雲のようにうらさびしい人生のお話。 盧弁護士を‘俗物’から‘人権’に引き出してかばった映画の中の慈愛深い先輩弁護士、その実際のモデルは釜山人権弁護士の大物と言われるキム・グァンイル弁護士だ。
1990年民主党の金泳三(キム・ヨンサム)が民正党の盧泰愚(ノ・テウ)、共和党の金鍾泌(キム・ジョンピル)と3党合同をする時、キム・グァンイルはその席に共にして、盧武鉉は野合だとして拒否し、二人は道が分かれた。 2002年大統領選挙の時、キム・グァンイルは盧武鉉が大統領になってはならない10の理由を挙げた。 盧大統領弾劾にも賛成票を投じた。
釜林3次事件裁判の担当判事は、映画とは違い相対的に被告人側に立って裁判を行い、左遷されて法服を脱ぎ、しばらく人権弁論をした。 だが、いつからか星条旗を描いた軍人帽をかぶって通い、オボイ(父母)連合、朴正熙大統領を正しく知らせる会で熱心に活動している。
盧弁護士も大統領になった後には韓米自由貿易協定締結、イラク派兵、労働者ストライキ鎮圧など、映画の中の‘進歩’盧武鉉とは違う姿を一部見せはしたが、それでも進歩政治家の象徴として人々の頭の中に永遠に残るだろう。
すべての合成されたものは儚い。 だが儚いということは、単にすべてのものが変わって行くという意味であって、無意味だということではない。 故に、この歳末にフランチスコ法王は語った。 「私の説教が、困難に出会った人々にとって何の意味もないということをよく知っている。 それでも言いたい。 ‘勇気を出しなさい’と。 主よ、私たちに働き口をください。 私たちに働き口のために戦う方法を教えて下さい。」 それで囚人服を着て法廷に立った1987年の盧武鉉<弁護人>は、2013年の私たちに希望を与える。
キム・ヒョンテ弁護士