「コリアタウンは、1930年代から『朝鮮市場』と呼ばれていた在日コリアンの市場でした。時が経つにつれて観光地に変わり、かつて朝鮮半島から渡ってきた在日コリアン社会が築いた歴史の痕跡が残らなくなってしまいました。そうした歴史が消えることを惜しみ、有志の方々が募金を通じて歴史資料館を設立することになりました」
先月21日、日本の大阪市生野区にある「大阪コリアタウン歴史資料館」で会った高正子(コ・ジョンジャ)館長(72)はこう語った。コリアタウンにある歴史資料館の入口には、在日コリアンの詩人である金時鐘(キム・シジョン)氏の詩が刻まれた「共生の碑」がある。資料館が開館したのは昨年4月29日。設立資金は、在日コリアン社会や済州島(チェジュド)などからの募金を用いた。
歴史資料館は「在日済州人歴史館」と言っても過言ではなく、1903年に済州から日本に渡った海女をはじめ、1920年代の済州・大阪間の直航路(君が代丸)の開設、解放(日本の敗戦)後の生野区の様子など、済州人の移住の歴史が各所で展示されている。高館長は「スペースが狭くて、来館できる人の数は限定的だが、2月末で来館者は1万人を超えた」と笑った。高館長の父親も、1931年に済州から大阪に来たいわゆる「君が代丸世代」だ。
高館長は在日済州人の間では世代差が大きいと述べた。「私たちの両親が来た頃は、朝鮮半島の生活風習や価値観をそのまま持ち込み、この地で生活しながらもそれを維持しようとしていましたが、2世、3世となるとそうした認識は希薄になりました。しかし済州人は、済州島とのつながりを手放しませんでした」。高館長の母方の叔父も済州4・3の犠牲者だ。農業学校の学生で村の洞窟に避難していた叔父は、討伐隊が洞窟の入口を石でふさいで火をつけたため、窒息死したという。
「私は、済州語を済州島に限定された方言ではなく、普通の韓国語だと考えて使っていました。その後、本格的に韓国語を学び始めてみると、言葉が違っていました。『ああ、私が使っている言葉は済州の言葉だったのか』。そう考えるようになりました」。高館長は「そうしたものが、在日済州人の持つアイデンティティではないでしょうか」と述べた。