昨年1年間、韓国大衆文化のキーワードの一つは「解放」だった。ソウルの外れで退屈な生活を送っている人物たちの「解放」に向けた奮闘を描いたドラマ「私の解放日誌」(JTBC)が話題になり、パルチザンだった父親の死を通じて父親の真の「解放」が何だったのかを理解するようになるという内容の小説『父の解放日誌』(チョン・ジア著、創批)もベストセラーになった。
経済規模世界10位圏と民主化を成し遂げた韓国で「解放」という言葉が大衆文化の前面に登場したのも興味深いが、主人公たちが必死で抜け出そうとするものが権力や暴力ではなく、現実の卑しさであることも注目に値する。「私の解放日誌」の主人公は、一度も十分に「満たされたことがない」という状況から抜け出そうと必死になり、イデオロギーだけを追い求めてきたかのように見えた『父の解放日誌』のパルチザンの父親は、周りの人と共に生きていくことでそれなりの「解放」を成し遂げようとする。長い間「解放」に付いて回った重たい政治的意味が、「いま・ここ」では破片化した関係の連結を、壊れてしまった人間性の回復を意味していることを示している。
「人民の暮らし」が欠落した全員会議
韓国の鏡像である朝鮮半島の北側でも「解放」は重要な話題であることは明らかだ。ただし、違いがあるとすれば、分断以来北朝鮮での「解放」はその意味網が拡張されていない。日本と米国の帝国主義からの「解放」だけが持続的に強調されてきたという意味だ。例えば、北朝鮮にとって朝鮮戦争は「米国の植民地支配の脅威から祖国の解放を守る」ための「祖国解放戦争」であり、金日成(キム・イルソン)首領の権威が絶対的な理由も「抗日革命を通じて人民解放を成し遂げた」ことにある。共和国創建75周年になった2023年までも国家建設の根幹として帝国主義からの「解放」を強調しており、自主的な国家で生きていく北朝鮮の人民は「解放」されたゆえに幸せだと叫んだりもする。
しかし、こんなにも外勢からの自由を強調してきた北朝鮮は、逆説的にさらに外勢に囚われてしまった。昨年12月に開かれた朝鮮労働党中央委員会第8期第6回全員会議では、米国の軍事的圧迫に対応するための「圧倒的軍事力の強化」が強調された一方、人民生活の改善に向けた具体的な経済計画に関する言及は見当たらないことが、これを裏付けている。「米帝国主義の強権と専横、対朝鮮政策」に対応するために核武力の強化にこだわるほど、人民の生活改善に使われる国家資源は制限されるからだ。もちろん2013年の金正恩(キム・ジョンウン)体制が明らかにした核・経済並進路線は2018~2019年の対話局面からしばらく経済発展に重きが置かれていたが、2021年の党大会で自力更生経済建設に旋回したりもした。だが、対外環境が急速に悪化し、結局は核・経済並進路線に回帰してしまった。
特に今回の全員会議では、核武力強化を強調し、経済部門では人民が「自力更生」と「艱苦奮闘」の精神で堪え忍ぶことを奨励している。植民と戦争、そして冷戦が積み重なった朝鮮半島で、北朝鮮が「解放」の代償として支払わなければならない費用が人民にどれほど大きな苦痛として転嫁されているかが確認できる。
では、「解放された」北朝鮮の人民たちは「喜んで」この状況に耐え続けるだろうか。脱冷戦と食糧難、それに市場化まで本格化した過去数十年の変化を経験した人民には、依然として「自力更生」の精神で堪え忍ぶ意思があるだろうか。
難しい質問であるが、一つだけ確かなのは、少なくとも北朝鮮体制は変化する人民の意識をかなり警戒しているという事実だ。今回の全員会議で「社会主義愛国運動、革命的大衆運動」を強調したのもそうであり、「党組織と勤労団体組織」が中心となって積極的な組織活動に乗り出すことを求めたことも、変化する人民の心をつなぎとめるための努力と言える。思想闘争の重要性を強調し、反動思想に対する統制と規律を強化することは、人民の意識に変化があることを示す証拠であり、だからこそ意味深長だ。
しかし、人民が体制からの「解放」に乗り出すと解釈するにはまだ早い。市場化が進んでからかなり時間が経った北朝鮮は、計画経済と市場が共存するそれなりの経済体制を構築し、人民はそれぞれの形で生活の「対策」を立てながら生きているためだ。自生的に芽生えた初期の市場勢力は国家との結託を通じて力を蓄え、今は国歌も彼らを簡単に無視できないほどになった。また、国家の資源を活用して富を蓄積した市場勢力にとって、国は最も重要な協力の対象である。互いの役割と領域を侵さない限り、国家と市場の強い関係は相当な生命力を保つ可能性が高い。市場に頼って日常を営む多くの人民が、現状維持を安定的に認識するのもそのためだ。その上、北朝鮮人民の大半は抑圧と統制から抜け出したいという熱望を抱く余裕がない。厳しい生活を強いられる状況で、人民が集中することとやるべきことは限られているからだ。北朝鮮人民の暮らしにおいて「解放」は抽象的だが、生存は生活であるということも忘れてはならない。
「似ているようで違う」南北の2023年は
南北は似ているが、同時に違ってもいる。社会と断絶され、自分を失ったと感じる韓国人の「解放」には歴史の重みと構造的矛盾がない一方、北朝鮮体制が掲げる外勢からの「解放」という歴史的当為は人民一人ひとりの権利と自由を制限してしまった。歴史がどうであれ、経済的成長さえ成し遂げられれば「解放」されると思っていた韓国人の心は病んでしまい、歴史清算と社会主義国家の建設という名分の下、プライドだけで凌いできた北朝鮮人民は生計を立てる問題に頭を悩ませている。
もし「解放」というものが政治的、社会的、経済的矛盾が絡まっている抑圧から抜け出すことならば、南北の人々は依然として「解放」されないまま生きているだけだ。だからと言って悲観する必要はない。「解放」というものは自ら乗り出す時に始まる過程なので、現実を批判的に捉えるだけでも第一歩は踏み出したことになるだろう。
朝鮮半島に生きる人々の意志にしか頼れない新たな一年が始まった。あらゆる悪条件にもかかわらず、希望を忘れてはならない。新年にはなおさらそうだ。