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[コラム]朝鮮半島と台湾の現代史はなぜ連動するのか

登録:2022-08-10 05:53 修正:2022-08-10 07:35
//ハンギョレ新聞社

 中国の秦剛駐米大使は4日、ナンシー・ペロシ米下院議長の台湾訪問に抗議する意味で書いたワシントン・ポストへの寄稿文で、「台湾は1800年間、切り離せない中国の領土の一部だった」と述べたが、歴史学者たちは恐らくこれに反論するだろう。台湾島には石器時代から漢族とは異なる原住民が暮らしており、17世紀にオランダとスペインなど欧州諸国が占領統治をした当時、労働者として働かせるため、漢族を大規模に移住させた。「台湾」という名称は、オランダの東インド会社が台湾島南部の駐屯地をその地域の原住民部族の名前を取って「Tayouan」と呼んだことに由来するという。1683年、清が台湾島を根拠に明の復興運動を行った鄭成功勢力を崩壊させたことで、台湾に対する中国本土王朝の統治が始まった。

 19世紀末から朝鮮半島と台湾の運命は深くつながっていた。朝鮮半島に対する主導権を争って日本と行った日清戦争で敗北した清は、1895年の下関条約により台湾を日本に渡した。朝鮮半島と台湾は15年の時差を置いて日本の植民地となった。朝鮮半島が南北に分断されてから1年後の1949年、共産党に敗北し中国大陸を失った蒋介石の国民党は、台湾に政府を建てた。米国は当時、台湾を国家と認めようとしなかった。米政府内の多くの人々が蒋介石を信頼せず、中国共産党との協力の可能性を打診したこともあった。米国は台湾防衛問題に介入しないと宣言し、米中央情報局(CIA)は、蒋介石政権が1950年末まで持ちこたえられないとみていた。

 ところが、1950年6月25日、朝鮮戦争の勃発で状況が一変した。米国は2日後、台湾海峡に米軍第7艦隊を送った。中華人民共和国がこの隙に台湾を占領し、共産主義がさらに拡散することを懸念したためだ。蒋介石政権が本土を攻撃して衝突が拡大することも防ぐための二重の布石でもあった。台湾はこうして「偶然に」生き残った。1953年7月27日に朝鮮戦争停戦協定が結ばれた後、中国は米国が台湾と安保条約を締結することを阻止するため、1954年9月3日に台湾の金門島に対する砲撃を始めた。第一次台湾海峡危機だ。しかし、中国の挑発は米国と台湾の交渉をむしろ加速させ、1954年12月2日、米華相互防衛条約が結ばれた。冷戦時代、韓国で中華民国(台湾)は「自由中国」と呼ばれたが、実際、台湾では戒厳令下で反共独裁統治が続いた。1980年代末、韓国と台湾では時期を同じくして民主化が行われたが、両社会の市民がきちんと交流する前に、1992年8月24日、韓国は中国と国交を樹立し、台湾と断交した。

 中国が台湾海峡を包囲し、大規模な軍事演習を行った5日、在韓米軍のU2偵察機が台湾海峡に出動したという。台湾の危機は朝鮮半島と連動する。朝鮮半島と台湾は、大陸と海洋の強大国が覇権争いを繰り広げる時には戦略的価値が上昇するが、だからこそ危うくなる、同病相憐れむ隣人だ。

パク・ミンヒ論説委員(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1054066.html韓国語原文入力:2022-08-0915:13
訳H.J

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