米軍がキャンプ・ハウズを去ってから15年が過ぎた基地の街は、まるで壊れた時計のように、過去に止まっていた。
今月17日、京畿道坡州市條里邑奉日川4里(パジュシ・チョリウプ・ポンイルチョン4リ)の住民たちと見て回った村の裏山の米軍基地の空きビルは、依然として頑丈そうな反面、都市開発事業が遅れている村は衰退の道を歩んでいた。恭陵川(コンヌンチョン)の辺に位置する50世帯の静かな農村だった奉日川4里は、1950年の朝鮮戦争と共に外国の軍隊が急に押し寄せて来たことですべてが変わった。仕事を探して全国各地から集まったよそ者や接待女性など数百人が、米軍基地前にテントを張ったり部屋を一間借りたりして、米兵を相手に商売をはじめたのだ。
村の最年長イ・ジェチュンさん(95)は「米軍部隊が去ったらみな散り散りになり、行き場のない者だけが留まって第2の故郷になってしまった。すぐに故郷に帰るつもりだったのに、情けない月日を過ごしてきた」と寂しそうに笑った。9人兄妹の長男だったイさんは1946年7月21日、故郷の黄海道碧城郡(ピョクソングン)に妻と息子、両親、8人の弟妹を残して一人で38度線を超えた。農業を営んでいた朝鮮民主党員の父親は、土地の分配をめぐって共産党員の親戚と対立すると、長男のイさんを南に行かせたのだ。9・28ソウル奪還後、故郷の村でしばし家族と再会したが、松岳山戦闘が勃発したため1日で別れ、70年間、他郷で残酷な歳月に耐えなければならなかった。
甕津(オンジン)と延坪島(ヨンピョンド)で数度の死線を乗り越えた彼は、生活のために米軍の補助役を担う「国連警察」になった。1週間の訓練を受けた後、議政府(ウィジョンブ)警察署に配属され、東豆川(トンドゥチョン)弾薬庫を守ったり、軍人、警察、接待女性を保護する仕事を担当した。坡州の長湍(チャンダン)から避難民を金村(クムチョン)収容所に移動させるのも彼の業務だった。
5年ほどが過ぎて国連警察が解散すると、1956年、32歳の年に坡州米軍基地で米兵の軍服の洗濯や掃除などをする「ハウスボーイ」になった。報酬は一カ月にタバコ7カートン。当時、キャンプ・ハウズには米兵560人と下士官160人が駐留していた。
「今は真っ暗ですが、当時は街が栄えていました。米軍部隊の前のテントで従業員160人が自炊をして接待女性も70人を超えていました。隣家で米兵が女性を殺したこともあります。その当時は警察も力がなく無法地帯でした」。
キャンプ・ハウズの歴史もイさんの生涯のように多事多難だった。戦争中の1953年に米海兵隊司令部基地と本部として始まり、1955年には米第24歩兵師団基地、1959年には米第1騎兵師団の補充隊と第24師団の本部、1960年には米第1師団本部が初代司令官の名を取ってキャンプ・ハウズと呼んだ。1965~71年に駐留していた米第2歩兵師団司令部が東豆川に移った後、第2師団第3旅団と第44工兵大隊の本部として使用され、2004年に韓国軍に移譲された。
坡州地域の米軍基地6カ所は2007年に返還が完了したが、キャンプ・グリーブスのみを京畿道がDMZ体験館として活用しているだけで、残りの5ヵ所は12年間放置されている。