息子の顔は黒かった。母親は「口と鼻が石炭粉にまみれて顔が黒かった」と言った。白い布とビニールで全身をくるまれ、顔だけ露になった状態だった。勇気を出して体を見ようとしたところ、人々が止めた。誰かが「損傷がひどいので、それを見たら親は正気ではいられない」と言った。それでもまた顔を確認した。息子に違いなかった。11日、葬儀場で確認した信じたくない現実だった。当時訪ねてきた会社の関係者は「彼は良い人で一生懸命働いたが、やってはいけないことをして…」という言葉で胸に釘を打ち込んだ。
23日午前、忠清南道泰安郡(テアングン)にある保健医療院の葬儀場のキム・ヨンギュンさん(24)の安置所で会ったキムさんの母キム・ミスクさん(50)は、その日から13日間、ここに留まっている。11日早朝6時、警察が夫に電話をかけてきた。「病院でもなく警察から電話がかかってきて、お子さんが事故に遭ったと言うのです。病院ではなく警察からきたのだから、何か大きな事故のようだと直感しました」。夫婦は急いで慶尚北道亀尾(クミ)から列車に乗って泰安医療院に到着した。救急室で息子の名前を告げたが「そんな人はいない」という答だけが返ってきた。振り返ったキムさんの目に、建物の外の向かい側の葬儀場が入った。葬儀場の職員は「20代の若い青年の遺体が一体ある」と言った。その時ようやく確認した黒い顔は息子だった。
ただ平凡に暮らそうと努めてきた、よくある庶民家庭の母親だったキムさんは、その日以降、息子の死を通じて知りたくなかった世の中の暗い面と向き合わなければならなかった。最近、記者会見でキムさんは「子どもを失った母親の恨みがどれほど大きな波紋を呼ぶのかを見せて断罪したい」と話した。キムさん夫婦は前日の22日にも「非正規職100人代表団」と共に大統領府のサランチェ前で座り込みをし、夜12時が過ぎて帰って来た。ソウル中区(チュング)にあるソウル労働庁から大統領府前まで行進して大統領との対話を要求したが、受け入れられなかった。「大統領府へ行進したところ、警察に阻まれました。もともと(現政府になってからは)あの通りを塞いだことはほとんどなかったそうです。でも今回は塞いだんです。なので、しばしひるんで座り込んでいたら、しばらくしてからどいてくれました」
非正規職だった息子のように、キムさんも非正規職だ。子どもの人生が自分の人生と大きく変わらない姿でつながっていた。息子のキムさんは4組2交代、母親のキムさんは2組2交代で働いていた。コンピューターのボードの内部回路を検査する仕事をしている。11日に死亡した息子のキムさんは、夜間勤務中だった。母親のキムさんもこの日、警察から電話を受ける前まで夜勤を終えて帰宅し、ぐっすり眠っていた。
母は事故現場を見回った
「墓のように積まれた石炭を片付ける仕事
一晩中やってもできなさそう...
息子の同僚が言うんです
自分たちもいつでも死ぬ可能性があると」
息子の死後、母親は息子がしていた仕事を「最初から最後までやってみたかった」。息子の同僚たちと一緒に、息子が働く時と同じ順序で、息子が働いていた現場を見て回った。石炭粉が散らばった階段でキムさんは滑って転びそうになった。体がぐらついて周囲の何かを慌ててつかんだが、誰かが「設備が稼動中の普段であれば、手を出してはいけない所」だと言った。横に這うように降りていくうちに、キムさんは随所が危険な場所だと思った。
「行く場所ごとにしゃがんで入るドアがあるのですが、そこをすべて開けて確認しなければならないそうです。コンベアーが力が強くスピードも速くて、誤ったら即死ぬ可能性のある環境でした。行く場所ごとにそのようなドアがとても多く、それも数階もやらねばならず、墓のように積まれた石炭も全部片付けながら働かなければならないそうです」。一人でやるには多すぎる量だった。一晩中片づけてもできそうになかった。事故後に会った息子の同僚たちも「働きながらふらついてぞっとする瞬間は一度や二度ではない。自分たちもいつでも死ぬ可能性があるとわかっている」と話した。石炭粉が舞う真っ暗なところで働いていた息子を思い出し、キムさんは深くため息をついた。
なぜその時止めなかったのか自責
「なぜ大変なのかと聞くと、ただ大変だと
もっと詳しく聞くこともできず…
苦労してみてはと言ったことを後悔している
こんなに劣悪な所で働いているとは思わなかった」
母親のキムさんは後悔していることが多い。警察の電話を受けた日、亀尾から泰安まで一足でタクシーで来なかったことを後悔した。息子が入社後につらいと言ったとき「何がつらいのかもっと詳しく聞けばよかった」と、また後悔した。息子は入社後3カ月間、一度だけ家を訪れた。予備軍訓練のおかげでようやく暇を得た息子は「会社の仕事はすごく大変だ」と話していたが、両親に心配されると思ったか、何が大変なのか具体的に話さなかった。
「なぜ大変なのかと聞くと、ただ大変だと言うのです。それでも韓電(韓国電力公社)を目標に経歴を積むために行ったのだから、できることまではやってみると言ってました。私たちは(大変そうだから、会社を)辞めるのを願ったけれど、彼がそう言うから…」。キムさんはそのとき、息子に「苦労してみるのは、あなたを奮い立たせる原動力になるよ」と話した。キムさんはこの言葉も後悔している。当時はこんなに劣悪なところで働いているとは想像もできなかった。その時、息子に少しでも詳しく会社について聞いていたら、こんなことにはならなかったのではないか、再び自責する。
キム・ヨンギュンさんは現在両親の住む亀尾で生まれ育った。ヨンギュンさんが高校に入学した年、ヨンギュンさんの父キム・ヘギさんが心筋梗塞で倒れた。大きな病院へ向かっていた救急車の中で父は「ヨンギュンを置いて行けるものか」と言って気を失った。幸い、数日でやっと目を覚ましたものの、後遺症が残った。その後7年間、母のキムさんが家計を支えてきた。結婚後、帰農のために借りた借金の上に夫まで倒れ、生活は厳しくなった。世の中を顧みる余裕がなかった。その間に息子のヨンギュンさんは人文系高校を卒業し、大邱(テグ)のある専門大学に進学した。「入社の門は狭いからむしろ技術を身につけた方がいいのではないか」と心配した。各種の学資金融資を受け、奨学金をもらって学校に通った。電気関連技術を身につけ、さまざまな資格も取った。卒業後、軍服務も通信兵にした。韓電に入社するという目標が少しずつはっきりしてきた。
「そういう環境だから追い詰められて…お金を稼がなければならないという思いがあったんです。ヨンギュンにも」と母のキムさんは言う。息子は初給料をもらって紅参と栄養剤、ビタミン化粧品を買って両親の元にやって来た。一生懸命働けば、暮らし向きは少しずつ良くなるという希望があった。
ヨンギュンのような青年がもう出ないように
「息子は本当に無念に死にました
追いやられ、見捨てられた状況で…
他のひとが私のような目に遭わないよう
子どもたちの安全な職場をつくらなければ」
その夢が崩れたところで、キムさんは「残っている青年たちを助けたい」と重ねて述べてきた。「子どもがこんなふうに悲惨に先に死ぬ痛みを、他の人は経験しないでほしい」と強調した。
「息子は本当に無念に死んだんです。社会に追い込まれ、国に見捨てられ、人間扱いされない状況で死んだのです。私のようなことを他の親には経験してほしくないのです。かわいいわが子を、世界をくれると言われても換えられない子どもたちが、咲ききることもできないまま死を迎えないでほしい。そのためには、子どもたちが最後まで安全に働ける環境を作ることが重要だと思います。だからこそ人々が、それでも韓国が生きるに値する国だと思えるよう、危なくないよう、そんなふうに変わってほしいです」
その日以降、安置所が設けられた建物の1階の案内板には、キム・ヨンギュさんの出棺日が隠されている。「真相究明と責任者の処罰がある程度行われてこそ葬儀の手続きを進めることができるというのが遺族の立場」だ。弔花が並んだ一画に青年非正規職の象徴となった写真が置かれている。「火力発電所で石炭設備を運転する非正規職」キム・ヨンギュンさんが、大統領に会いたいと言って安全帽をかぶりマスクをつけて撮った写真だ。1日に撮った写真では、キムさんは顔をマスクで隠している。1年後に正規職への転換条件の契約職という身分のため、再契約が難しくなるのではと思い、労働組合に加入する事実を明らかにすることは難しかったが、「非正規職100人代表団」の運動の趣旨に共感し、勇気を出した。安置所の写真の中のキム・ヨンギュンさんの顔は、ひときわ白かった。清らかな顔さえ、この社会はまともに守ることができなかった。