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性売買女性が明らかにした‘地獄で送った14年’

原文入力:2011/12/10 12:21(4870字)


中学校の時に家出してソウルへ…空腹に勝てず性売買に
1年後に借金返し家へ…することなくて再び業所へ
平凡な人生が容易でなく死にたかったが "借金返してから死ね"


←仁川、崇義洞(スンウイドン)の性売買集結地、別名‘イエローハウス’風景。7年前にパク・ウンギョン(仮名)氏がそうしたように、今もこちらには性売買女性たちが毎日‘お客さん’を迎えている。 仁川人権希望センター カンガンスレ提供


  一部の女性はなぜ身を売ることになるのか。毎日からだを任せなければならない女性たちのからだと心には何が起こるのだろうか。
ここに、前職性売買女性一人の話を通じて性売買を巡る流入経路と実態を概観する。ひとりの話から我が国社会の実態を描き出すことはできない相談だ。ソウル大女性研究所と女性人権振興院の研究資料から質問に対する答を加えた。 _編集者

  1991年の晩秋だった。江原道(カンウォンド)の小都市で暮らしていた15才の女子中学生ウンギョンは家を出た。友人と一緒であった。父親は娘に関心がなかった。 父親の暴力に耐えられず母親はその年の春、ウンギョンより先に家を出た。 長い時間が過ぎても彼女はその日の朝を覚えていた。 母親はウンギョンの手を握り「私がいなくても兄さんと弟(妹)の面倒を見てあげて」と頼んだ。幼い娘は母親を引き止めなかった。父親に毎日殴られてばかりの母親は思い切って出ていった方が良いと思った。学校に行ってもずっと母親のことばかりを考えていた。急いで帰ってきた家には、やはり母親はいなかった。孤独だった。胸の内をあかせる友人が唯一の支えだった。友人の母親は性売買女性だった。友人は大部分の時間を家で一人で過ごしていた。支えのない2人の女子中学生は町を離れることを決心した。帰ってくる交通費もなくソウルに発った。


幼い中学生が閉じ込められた‘紅灯の家’


  ソウルの空気は冷たかった。2人の女子中学生はソウル駅前で2晩野宿した。 腹がへった。3日目、背の低い‘革ジャンパー’が近づいて来た。ご飯を食べさせてくれた。働き口も世話してあげると言った。 裁判所の近所にある食堂だと言った。一緒にタクシーに乗り1時間以上も移動した。大都市を抜け出したひっそりしたところにつくと‘真っ赤な電気の点いている家々’があった。故郷でも見たことがある所だった。後になってそちらが京畿道(キョンギド)坡州(パジュ)法院里性売買集結地だということを知った。慣れないところで幼い中学生は完全に萎縮した。子供たちは小さな部屋に案内された。しばらく待つと年配の女性が暖かい食事を持ってきた。革ジャンパーの姿はなかった。その人に哀願した。食堂と聞いてきたので家に帰させて欲しいと言った。答が帰ってきた。"このアマッ子が。先に言わなきゃダメじゃないか。いったいいくら払ったと思ってるんだ。" そして性売買が始まった。


  前借金は1人250万ウォンずつだった。それにウンギョンが泊まる部屋に新しく入れたベッドと家具、テレビ代金も借金になった。一気に借金は750万ウォンに増えた。婆は自身を‘お母さん’と呼ぶように言った。爺は自然に‘お父さん’になった。お母さんとお父さんには一緒に暮らす‘本物’の息子と娘がいた。娘は保育教師であり、息子はソウルに職場があると言った。彼らは板の間と廊下を共有した。娘と息子は店の裏口から出退勤した。ウンギョンの‘仕事場’と一家のくつろぎの場所は奇怪に入り乱れていた。


  初めてのお客を今でも覚えている。騒がしい一群の男たちがどっと業所に押しかけてきた。 酒で満身瘡痍になった一人だけが業所に残った。男たちは「俺たちの友人が軍隊に行くので良くしてやってくれ」と言って去った。男は部屋に入ってくるやいなや眠りこけた。ウンギョンは部屋のすみに静かに身をすくめて座った。 夜がとても長かった。


  年齢が幼いことは全く問題にならなかった。ママは誰かが訊いたら二十才だと言えと教えたが、誰もそれを信じなかった。男たちは「もっと幼いみたいだけど?」「幼くても大丈夫」などと言うだけだった。 誰にもウンギョンの本当の年齢は問題にならなかった。 この業所にいる間、ウンギョンはただの一度も外出はできなかった。営業時間が過ぎれば業所のすべての門は閉まった。すべての物品は電話すれば配達された。化粧品や生理用ナプキン、食べ物など直接出かけて買うことはなかった。 いや、買いに行くことは禁止されていた。 周辺には一つの商圏が一式揃っていた。


  稼ぎは良かった。月の収入が800万ウォンを越える時もあった。一日に10人以上のお客を迎えもした。 収入は5:5で分けた。実際にウンギョンに残るお金はなかった。家賃と洗濯費、食代、家財道具などの費用を賄えば実際に残るお金は70万ウォン程であった。その金は借金を返すために使われた。結局、月給はそっくりお母さんの財布に入った。 1年を過ぎて借金をかろうじて返した。お母さんに家に行ってくると嘘をついた。 今回はママも彼女を捕まえておく名分がなかった。


“このアマーッ借金返してから死ね”


  故郷に帰ってもすべき仕事はなかった。父親は相変らず無関心だった。友人の母親の勧誘で喫茶店で配達の仕事を始めた。月給は40万ウォンだった。 一年程過ぎると‘チケット’を売れと勧誘された。 16才の時からだった。 持てるもののない未成年者にも性売買の誘惑は地雷のように敷かれていた。 以後の‘仕事場’は喫茶店、居酒屋、ルームサロンなどに変わった。 職業紹介所の‘紹介屋’が業者らを斡旋した。彼らの勧誘で業種と地域を飛び交った。23才になった年にからだが異常を示した。仕事で口にする酒とコーヒーは胃を蝕んだ。酒を飲まなくとも営業できる所を探した。 それで流れて行った先が仁川、崇義洞の‘イエローハウス’であった。 いわゆる‘ガラス部屋’(業所の全面がガラス貼りで道行く人が性売買女性を‘選べる’業所)が密集した性売買集結地であった。


  一度入った業者は離れ難かった。借金が最も大きな理由だった。逃げることになればいわゆる‘解決者’がついた。性売買女性たちは仕事を始めると業者に身分証を預けた。身分証に書かれた住所は解決者らにとって‘解決’の糸口になった。 彼らが縁故を辿って追跡してくれば逃げた女性たちは再び連れてこられるのが常だった。 解決者に捕まってきた女性には席を外した期間の月給が債務として課せられた。「島に売ってしまう」という脅迫も恐ろしかった。 性売買事業主の殴打も恐ろしかった。


  それでもウンギョンは事業主に殴られたことはなかった。もっと恐ろしいのは性を買う男たちだった。江原道、横城の喫茶店で仕事をしていた時だった。チケットを切った男が夜、彼女をいきなり山に引っ張っていった。訳が分からなかった。 恐怖は本能的に迫ってきた。 男性に抵抗するや、ムチ打ちが始まった。かろうじて彼から逃げた。夜中に血だらけになったまま道を歩く女性に誰も車を止めてはくれなかった。 そのようにして4時間歩いた。性売買業者にきて麻薬を打つ男たちもいた。 目の前で男の表情が言葉では言いようのないほど変わる姿を眺めるのは恐ろしいことだった。 刑事に‘気分悪そうに見つめる’という理由だけで腕が折れるほど殴打された同僚もいた。到底言えない変態的行為を強要する男たちもいた。 自身も一緒に狂っていくようだった。 事業主も確実に性売買女性の味方ではなかった。 性購買男性との紛争はたびたび女性のせいにされた。


←2008年仁川、崇義洞の性売買集結地で一人の女性が‘お客さん’を待っている。 <ハンギョレ>リュ・ウジョン記者


  性売買を止めることはできなかったのだろうか? 口で言うほど容易ではなかった。習ったことも少なくて、できる仕事もなかったためだ。平凡な妻であり母親になりたかったが、夢はどうしても遠く見えた。‘このようにして死ぬまで生きなければならないんだな’と考えた。 借金のくびきも恐ろしかった。 仕事は多かったがお金は貯まらなかった。 23才の時、2800万ウォンだった借金は仁川性売買集結地で仕事をした5年間にもずっと鎖のように離れなかった。金額が650万ウォンに減っただけだ。 ‘地獄’から抜け出せる方法があったりもした。ある日、江原道のある旅館の部屋で一人で酒を飲んで泣いて、壁に打たれたクギに紐をかけた。紐が首にかかった瞬間、これで全てが終わるんだなという気がした。 突然怖くなった。 そのように生死の境にしばらくいて再び地獄に戻った。 睡眠剤を一握り飲んだこともあった。それでも翌日はまた始まった。 後から話を伝え聞いた事業主は「借金を返してから死ね」と咎めた。


  2004年に事業主が健康ために業所を閉じた。いる所がなくなり、ウンギョンは知り合いの家にしばらく身を寄せた。それが契機となった。性売買女性のための相談所を思い出した。相談所の門の前まで行った。それでも3度だまって戻ってきた。‘どなたですか?’と訊かれたらいったい何と答えるか勇気が出なかった。 4回目に相談所を訪ねた日、ようやく門を開けた。相談者たちは誰かとは尋ねなかった。彼女は、話すより先に涙があふれた。初めて見る人々の前で彼は長く泣いた。去る11月30日、記者と向かい合って座ったパク・ウンギョン(35・仮名)氏は「この間に積もったものが多かったんだと思います」と淡々と話した。今は彼女は自身の名前も持つようになった。 性売買業所で仕事をした14年間、彼女は一度も実名で呼ばれたことがなかった。ソラ、チソンなどが彼女の仮名だった。


性売買女性の自活を助けて新たな人生を見つける


  彼女にはもう家庭がある。娘も2人いる。 夫は彼女の過去を知っているが問題にしない。もちろん結婚後にも危機はあった。パク氏は新しい暮らしに何かを加えなければならないようだった。 カラオケ コンパニオンの仕事を調べてみようとした。 夫が止めた。 彼は「死ぬよりも嫌だったと言っていたのに、なぜまたしようとするのか。静かに休め」と言った。 性売買集結地を出て初めて得た職場は食堂だった。13日後にクビになった。社会生活にまったく慣れていなかった。 計算も下手だった。 人々に調べられるかと思うと恐ろしかった。 何もできない自分に対して自己恥辱感を持った。パク氏は「対人忌避症とうつ病に苦しめられた」と言った。長く留まった性売買のドロ沼から心が抜け出してくるには時間が必要だった。 性売買女性自活支援団体の支援が大きかった。 2005年7月12日、彼女は今でもその日を記憶している。 彼女が自活団体を通じて初めて仕事を得た日だった。彼女は「生まれ変わった日」と話した。 彼女は今、仁川地域性売買女性支援団体である‘人権希望センター カンガンスレ’で働いている。性売買女性たちの相談にのり、自活を助けている。 彼女は検定試験で高等学校を卒業し、サイバー大学で社会福祉学を専攻している。「心ならずも性売買をすることになったり、性売買から抜け出そうとしている女性たちにとってのモデルになりたい」と話した。


  パク氏は永年の屈曲からついに抜け出した運の良いケースだ。ソウル大女性研究所が昨年末に作成した報告書‘性売買実態調査’によれば、性売買集結地と性売買斡旋業所に従事する女性は全国で14万人を越えると予測された。それだけ多数の‘パク・ウンギョン’は依然として性売買女性として留まっている。


キム・ギテ記者 kkt@hani.co.kr


原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/509530.html 訳J.S