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"ペク・ソンヨプ 智異山(チリサン)討伐作戦時 良民集団凍死"

原文入力:2011/06/21 22:01(2621字)
イ・スニョク記者

6・25 61周年控え‘反共英雄化’論難増幅
作戦参謀 務め故 コン・グクチン前准将‘韓国戦争史’で証言
"子供・婦女子ら 捕虜収容所へ行き半数以上が死亡"
"ソン・ヨチャンもウサギ追い討伐に反対" …ペク将軍側 "返答困難

←親日行跡論難をかもしているペク・ソンヨプ(白善燁)白野戦戦闘司令官が韓国戦争がたけなわだった1951年12月30日、全北(チョンブク)、南原市(ナムォンシ)の情報(G-2)状況室で開かれた参謀会議で智異山(チリサン)パルチザン討伐のための作戦地図を示している。 <ハンギョレ>資料写真

危機から祖国を救った韓国戦争の英雄か?
独立軍を討伐した親日賦役軍人か?
6・25勃発61周年を控えペク・ソンヨプ(92)将軍を巡る論議が熱くなっている。韓国軍初の4星将軍であり参謀総長を2回歴任した軍元老であるペク将軍について<韓国放送>(KBS)が特集プログラムを製作し、一部では銅像建立に動いているが、これに対しては功罪をきちんと評価しておらず一方的美化だという批判も出ている。

こうした中<ハンギョレ>はペク将軍が主導した智異山パルチザン討伐作戦が罪のない良民の犠牲を引き起こしたという当時の軍関係者の証言記録を単独入手した。国防部戦史編纂委員会(現 軍史編纂委員会)が1960年代参戦者らの口述証言を収録した資料だが、ここでペク将軍の作戦参謀出身である予備役将軍は当時の作戦と関連して悔恨に満ちた話を打ち明けた。

■ "この方はこの中にいるのは全員敵だとし" 1964年に発足した戦史編纂委は<韓国戦争史>編纂のために参戦者3000人余りを対象に膨大な口述収録作業を行った。この作業の一環として1965年6月15日韓国紙業(株)社長だったコン・グクチン前予備役准将を相手に証言聴取がなされた。

 "(1軍団)作戦参謀として行きました。ペク(ソンヨプ)将軍を迎えて春季、1次、2次、3次、4次攻勢まで体験し、智異山に行き…。ペク隊長と争って別れました。" 戦場で指揮官と作戦参謀は最も緊密な間なのに、なぜ別れたのであろうか?

 "智異山が4道、9ヶ郡です。9ヶ郡の住民が20万人です。この方(ペク将軍)はこの中にいるのは皆敵だ、光州(クァンジュ)に捕虜収容所を作りました。それで攻撃開始すれば子供たち、婦女子たちをすべて敵に仕立て捕虜として来るのですが、トラックに乗せ光州まで後送すれば、全員凍死するでしょう。国内戦で同族間の争いをしているのに、多少なりとも良民と敵を分けて取り扱うべきで、そうでなければ北側の土地に行き八路軍討伐するのと何の違いがあるかと言いました。それで私と争ったのです。"

韓国戦争中の1951年末、米軍は智異山パルチザン討伐のための司令部を設け、ペク・ソンヨプ当時1軍団長に指揮を任せた。ペク(白善燁)将軍の名前を取り‘白野戦戦闘司令部’と呼ばれた部隊だ。配下には首都師団(師団長 ソン・ヨチャン)と8師団(師団長 チェ・ヨンヒ),西南地区戦闘司令部などが配置された。ペク将軍と意見対立の末に白野戦司令部作戦参謀を辞めたというコン前将軍の証言が続いた。

■ "問題が多かった…今風に言えば悪評が多かった"
"別れてから(私は) 21連隊に行きました。結果がどうだったですか? 厳冬雪寒にパーカーを来てヒーターつけても寒いのに数多くの良民は光州(捕虜収容所)に行き半数以上が死にました。ペク将軍、あなたが政治的にどんな理由があるのか知らないが成果が遅れてもそうするべきで、この寒い時に光州に連れていけば彼らが重ね重ね生涯恨むでしょう。その後で真意が分かりました。悪評がたくさん出ました。戦時だからそうでも、今だったら悪評がたくさん立ったでしょう。"

当時ペク将軍が採択した作戦名は‘ネズミ捕り作戦’(Operation Rat Kill)。智異山を包囲しウサギ追い方式で住民を疎開させ食べ物をなくして餓死させる方式だった。作戦成果は良好だった。51年11月に始まった討伐作戦は翌年初めには事実上完了した。捕虜と住民らが入り乱れて収容された光州捕虜収容所は劣悪な環境と良民収容で社会問題になり、李承晩大統領の指示で1953年に解体された。
続くコン前将軍の証言。「私も参謀として過ちがあるだろう。参謀として最善を尽くし建議すれば良かったが、失敗を最小限に限定することが参謀(の役割)であるのに、その作戦の作戦参謀としてできずに、そのようにして出てきました。(中略)ソン・ヨチャンも反対しました。チェ・ヨンヒも皆反対しました。永遠に非難されても仕方ない…。」

■ “一方的非難は不当だが、本人の沈黙も問題”
コン前将軍のこういう証言と関連してペク将軍の見解を聞こうと思ったが、ペク将軍に随行する関係者は「将軍様が年老いてインタビューは難しい。返答が困難だ”と答えた。証言者のコン前将軍は数年前に亡くなった。

証言録の性格上、一方の主張に過ぎず、すべての証言を100%信頼することはできない。だが、ペク将軍が責任者として実行した作戦で多くの犠牲者が出たことは事実だ。これと関連してペク将軍は過去に自身の著書で以下の通り明らかにした。

“指揮部の指針と異なり、末端部隊が非行を犯し虚偽報告で揉み消す場合、それを完全に確認し真偽を分けることは真に難しい。(中略)当時としては私がとうてい知り得なかったことかもしれないが、討伐部隊の総司令官として私ももしも部下将兵の非行により犠牲になった魂があるならば彼らの冥福を祈りたい心情だ。”(<実録智異山>)

韓国近現代史を専攻したある歴史学者は「良民虐殺問題は戦争という当時の時代的状況と併せて見なければならず、ペク将軍より更に深刻な指揮官もいたので、一方的に非難することは難しい」としつつも「本人としては(良民虐殺問題や)間島(カンド)特設隊など、自身の過去と関連して敏感な問題に沈黙する他はないのではないか」と話した。

イ・スニョク記者 hyuk@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/politics/defense/483838.html 訳J.S