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"チョ会長様・労働長官様、どうか私たちの話を聞いて下さい"

原文入力:2011/06/19 20:24(6457字)

状況切迫…双龍車解雇のように死者が相次ぐかも
170人に対する整理解雇が撤回されれば降りて行く
"公権力が投入されれば選択できる結論は一つだけ"
インタビュー/イ・インウ企画委員 iwlee21@hani.co.kr

←キム・ジンスク氏は1坪にも満たないクレーン操縦室で籠城生活を続けている。キム氏は孤独感と退屈を紛らわせるためにツイッターに没頭する時が多いという。「心理的に安定しないので本は全く読めません。ツイッターを通じて激励する方々が多く、ここに訪ねてこられる方々も大部分がツイッターを通じて来られる方々が多いのです。キム・ヨジン氏もツイッターに通じて知り合ったし。ツイッターが現在の状況でほとんど唯一の疎通手段であり、私には武器になってくれています。」下の写真はキム氏が生活しているタワークレーン。釜山/イ・ジョンウ先任記者 woo@hani.co.kr

18才から縫製工・バス車掌・溶接工まで転転
労働運動で解雇・懲役… "選択権のない人生だった"
‘希望バス’本当に斬新…何とも言いようもなく申し訳なく感謝

166日間 韓進重タワークレーン籠城 キム・ジンスク氏

キム・ジンスク(51)民主労総釜山本部指導委員がストライキ中の釜山韓進重工業影島造船所内の高さ35mのタワークレーンに上がり、労組員170人に対する会社の整理解雇撤回を要求し20日現在で166日目の高空籠城を行っている。彼が籠城している85号クレーンは2003年に韓進重工業労組委員長キム・ジュイク氏が解雇組合員の復職を要求し129日間にわたり籠城し絶望感の末に首を括り自殺したところだ。キム氏にも深い傷を残した‘死のクレーン’で、彼女は自身を崖っぷちまで追い詰め、すさまじい闘争を行っている。17日、記者が影島造船所を訪ねて行った時はちょうどストライキ労組員に対する立入禁止仮処分の執行が始まり、警備がものものしかった。金属労組釜山梁山支部が正門で断食座り込み記者会見を行う合間を利用して、造船所内に潜入(?)することに成功した。インタビューはキム氏が籠城中のクレーンの下でしばらく電話で行われた。携帯電話の向こう側から聞こえる彼女の声は依然として断固としていた。「170人の労組員の整理解雇方針が撤回されるまでは決して降りて行かない…。」上下35mの距離をおいて初対面の二人が手を振っているとみられることでインタビューの形式的アリバイは完成されたが、インタビューまでをも完成できるはずもなかった。主要質問と答えは質問紙をクレーン上に送ることで代えられた。こういうインタビューがこの先 必要のない世の中が一日も早く来てほしい。

-もう降りてきても良いのではないか?

 "整理解雇が撤回されれば。そうでなければ降りません。"

-労組がストライキを始めたのが昨年12月で、あなたがそこへ上がったのが1月6日です。なぜこのように長期対立が続いているのですか?

 "今回の事態は使用者が影島造船所を閉鎖し、フィリピンへ造船所を移そうとする計画から始まったのです。国内生産基盤を放棄して国外へ工場を移転するためには正規職を減らさなければならず、そのためには労組を無力化しなければならないから整理解雇を持ち出したのです。600人余りの労組員中、主に若い労組員が大部分である170人に対する整理解雇は労組を事実上解体させることに他なりません。こういう不当な整理解雇をどうして受け入れられますか?"

-今、あなたがいる所が2003年 韓進重工業労組委員長キム・ジュイク氏が自殺したところです。

 "彼が死んだ時、私の感じた罪悪感は到底言い尽くせません。2週間ずっと泣いていました。ところでクァク・ジェギュ組合員が後に従って死にました。二人の合同葬儀を行い家に帰ってきて、なにげなくボイラーをつけようとして びくっとしました。同志を二人も弔って帰ってきたというのに、それでも暖かい部屋で寝ようとしてボイラーの火を点けようとする自分が何とも情けなく哀れでなりませんでした。夜中に吐きながら泣いた後、一度もボイラーを点けて寝ることができませんでした。現在の状況がその時と全く同じです。使用側が度々私や労組員を崖っぷちに追いやっています。"

-使用者と政府に言いたいことは?

“チョ・ナモ会長様、170人を整理解雇した翌日に経営陣が株式配当金174億ウォンを持っていったことは誰が見ても納得できない良心の問題です。さらには莫大な黒字を出した企業でありながら。韓進重工業問題の本質は影島造船所を閉鎖しフィリピンに移そうとする目的にあるのではないですか? 受注を受けられずに解雇したというが、受注は経営陣の責任ではないですか? そして私たちより賃金がはるかに高い他の造船所はみな受けている受注をなぜここだけが受けられないのですか? 受注を担当したチョ・ナモ会長様と子息のチョ・ウォングク常務様。私たちを崖っぷちに追いやるお二方は何らかの責任を負われましたか? 労働部長官様に話します。双龍車で整理解雇以後に15人が死にました。私たちもこの戦いに負ければそうなるかも知れません。そうなる前に、どうか誰でもいいから来て心からの私たちの話を聞いて下さい。”

-去る12日、全国各地で市民750人余りが‘希望バス’に乗り、あなたに会いに影島造船所を訪ねました。俳優キム・ヨジン氏らはしばらく連行されもしましたよ。

“希望バスは私が30年近く労働運動をしてきたが、初めての体験で、とても新しくて神秘な運動でした。希望運動。何の組織的関連性もない個人たちが自分の金で1泊2日の時間をあけ見慣れないところ、見慣れない経験をしたということ自体が どれほど新鮮でしょう! ところが使用側では希望バスがくる前日に用役と会社救済隊1000人余りを動員し組合員に暴力を行使し、出入り口を完全に封鎖しました。キム・ヨジン氏と連行された方々、そして召喚状を受け取ることになった方々にはなんとも言えないほど申し訳なく、そしてありがとうございます。”

-そちらのクレーンでどのように過ごしていますか?

“前面ガラス以外は100%鉄でできた空間です。生活は操縦室内でしますが、操縦席をのぞけば監獄の独房(0.75坪)より少し狭いです。食べ物は下から綱で引き上げます。昨年、整理解雇反対断食をして胃を傷つけ、ご飯はあまり食べられません。代わりに果物、焼きイモ、おかゆなどを食べています。睡眠は公権力投入の話が出た後は神経が鋭敏になり1,2時間程度しか寝られませんが、それも深くは眠れず仮眠をとっています。夜を耐えることがしんどいです。”

-そこではどんな考えを多くしますか?

“この頃は公権力が投入される時の状況に対する想像が一番多くて、そうなった時に私がどんな選択をしなければならないかを考えることが一番多いです。ところがいくら考えてみても結論は一つしかありません。他には選択の余地がないと思います。今までの自分の生き様がそうだったように。”

-決して不祥事があってはいけません。忘れないで下さい。クレーンから降りれば一番最初にしたいことは?

“入浴。映画も見たいし。人々と一緒に食卓でご飯を食べたいし。そして何の威嚇もないこぢんまりしたところでどっぷりねむってみたいですね…。”

-個人的に人間キム・ジンスクに対して心配している人々が多いですよ。少女時期の夢は何だったんですか?

“文を書く人になりたかったんです。作家でも、詩人でも、記者でも。一番最初に読んだ小説がサーカス団員らの哀歓を描いたハン・スサンの<浮き草>ですが、十回以上 読みました。友人の家にある世界文学全集40冊を私がみな読みました。新聞配達をしている時は新聞を初めから最後までみな読んで、母親に文を教えて…。”

-都市へ出て来て縫製工、バス車掌などもしましたね。

“釜山にきて大宇実業という服を作る工場に行きました。1万名を越える規模だからものすごかったんですよ。事務室で一日中マイクでののしり、不良が多く出れば数百人が見ている前で公開的に横っ面を殴り足蹴にして。ところで変なことは、そのように殴られている人がいるにも関わらず、他の人は平然と仕事をしているんです。そのような光景をあまりにもたくさん見たからでしね。私も頬を殴られ、泣きながらウロウロと労働事務所まで訪ねて行ったが‘仕事をしていれば、そのようなことはあるのに、どうしてそういうのを言いにここまできたのか’と言われました。”

-1981年大韓造船公社に溶接工として入ったが、女が溶接の仕事をすることになったのは?

“お金がたくさんくれるというのでやりましたよ。何かすばらしく見えたりもしたが、実際に現場に配置されて見るととても危険で恐ろしいだけで、一つも素晴らしくはなかったんですよ。何日おきかで事故が起こり。そうするうちに私も倒れてきた鉄板で両脚が折れる事故に遭い辞めたいと思ったが、どこへも行くところがなくて習った技術が惜しかったりもしたのでそれで続けたんです。”

-解雇はどのようにしてされましたか?

“事故が本当に多かったが、その時は労災補償が何たるかも知らなかったんですよ。自分のお金で買って食べる弁当からネズミの糞が出てきても皆、何も言えませんでした。そうするうちに1986年に労組代議員に出馬しました。その時は現場労働者が代議員に出馬するということ自体、考えられない時代でした。出馬を放棄させようと管理者らの弾圧が激しかったが、トップで当選しました。それを契機に抑えられていた現場の雰囲気が熱くなり、会社では私を組合員でなく労組活動もできない部署に異動させました。行かないとして頑張っていると再び船殻工場に異動命令が下りました。そうしていると対共分室に私を引っ張っていきました。アカではないかと。その後、待機発令が出て、もう一度 対共分室に連行された後にはすぐに解雇でした。解雇理由は上司命令不服従。86年7月14日でした。その時はそういうのをどこにも訴えようがありませんでした。毎朝習慣のように会社の前に行けば警察、管理者、御用労組幹部らに蹴りまくられて首根っこをつかまれ引きずりまわされる毎日でした。”

-職業労働運動家として人生を後悔した時はありませんか?

“私は18才から自分の生き様を選択したことがありません。生きてゆくためにはいくら恐ろしくても工場に行かなければなりませんでした。対共分室、解雇、懲役…どれも私の選択ではありません。ブラックリストというのがあって就職もできませんでした。怒りは積もり積もって。運動する人生を後悔するというよりは、10年来の友人、20年来の友人 三人を次々と失いながら、私がその時どのようにしたら彼らを失わずに済んだのだろうか? そんなことに対する後悔は強いです…。”

-結婚しようとは思いませんでしたか?

“結婚を考え夢見ることができる人生ではありませんでした。”

-自らをどのように規定しますか? 職業労働活動家? 革命家? どんな世の中を望みますか?

“運動を職業として考えてみたことはありません。ただただ生きることでしたよ。革命という言葉を聞けばまだ胸がときめきはします。とにかく今のように人間がお金に支配され、正義が不正に支配される現実を変えることができるのは革命以外にないですから。けれど‘私が革命家なのか’という質問には答えに窮します。ただ、今は整理解雇さえない現実になれば良いという…、それで正規職が非正規職になり、死の奈落に落ちるそのような悲劇だけでも防げれば良いと思うだけです。”

-あなたの経歴や執念、意志などを見れば労働者を代表して政治をすることもできるという気がしますが?

“民主労働党が国会に進出する時、そのような要求が多かったのですが、私は政治家体質ではありません。毎日ののしりあった人々と顔を合わせること自体、耐えられません。しかしチョ・ナモ会長とは必ず会いたいです。切迫しているから。”

-他の所で別の生活を送るとすれば、どんな生活を送りたいですか?

“他の人生に連れて行っても住めないと思います。この怒りを、この恨(ハン)を抱いて、どこへ行ってどんな生活を送るということでしょうか? 私をここから抜け出せないようにしているのは恨です。パク・チャンス、キム・ジュイク、クァク・ジェギュだけでなく私が追悼辞を書いたその多くの死、そして解雇は殺人というこの鳥肌の立つスローガンを朝に夕に何度も叫ぶ私たちの組合員のあの不安な目つき、垂れた肩…パク・チャンス、キム・ジュイク、クァク・ジェギュが命をかけて守った彼らを必ず生かしたいのです。それが私の人生の使命です。”

キム氏の本<塩花木>の‘非正規職は正規職の未来だ’から一部を紹介する。

“私が解雇された、その齢 二十六。その日以後、私はただの一日も青春を持てなかった。いっそ五十だったら、いやもっと 六十にでもなったとすればその話にもならない仕事をそのままあのままにしずめて放棄できたでしょうか? 四十七になっても解雇者として残っている私が、20年歳月の無力感と申し訳なさをなだめるために、二十七の新規解雇者にある日 尋ねてみました。‘春になったら何が一番したいですか?’自分にもあのように光る青春が一日でもあったとすれば…。会う度に夢見るようなきれいな霊魂が当たり前のように答えました。‘ワンピースを着て三浪津(サムナンジン)のイチゴ畑に行きたいです。’敵がい心でもなくイデオロギーでもない、その純潔な夢がかなう春になることを。ぜひあのきれいな霊魂が花より先に明るい春が来ることを。そのような春がぜひ彼らのものになることを切実に望みます。”

キム・ジンスク氏があの高いクレーンから明るい顔で手を振りながら降りてこれることを心より願う。花咲く春がくれば希望バスに別れて乗りワンピースを着た彼女と三浪津(サムナンジン)のイチゴ畑に行きたい。

20年余、すさまじい労働運動…パク・ジョンチョル人権賞を受ける

キム・ジンスクとは

1960年生まれ。幼い時期の夢は作家だった。中学校を中退し18才の時に釜山にきて大宇実業に女工とそて就職し学校に通うことはできないという言葉で辞めた。海雲台でアイスクリーム売りをし、新聞配達、牛乳配達、バス車掌などの職業を転々とした。1981年21才の時「お金をたくさんくれる」という話を聞いて、大韓造船公社(現 韓進重工業)の唯一の女性溶接工になった。1984年、勤労夜学講学がくれた<チョン・テイル評伝>を読み、夜通し泣いた後 労働者の現実に目を開いた。1986年管理者らの引き止めを振り切り現場労働者としては初めて労組代議員に当選し、その年7月に上司命令不服従を理由に解雇された。1995年ポンセン病院ストライキと関連して拘束されもした。2003年 韓進重工業労組委員長キム・ジュイク氏と組合員クァク・ジェギュ氏の自殺を契機に解雇労働者が全員復職する時もキム氏だけは韓国経営者総協会(経総)の反対で復職できなかった。自身が書いた人生の記録と、各種デモ現場で行った演説、追悼辞などを集め2007年に出した<塩花木>(ヒューマニタス)は今も求める人が多いステディセラーだ。現在、民主労総釜山本部指導委員であり、去る8日に第7回パク・ジョンチョル人権賞を受けた。

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/483458.html 訳J.S