原文入力:2011/06/01 09:51(5272字)
安全指針は言葉だけだった
パク・スジン記者、ユ・シンジェ記者、キム・ミョンジン記者
人影がバックミラーに映った。川からすくい上げた砂を川辺に空けるためにダンプトラックを後進させていたカン・ヨングは、急ブレーキを踏んだ。ドアを開け、自分の背丈ほどもある高い運転席から飛び降りた。
彼はこの仕事を始めるとき安全教育を受けた。工事現場では時速20km以下で走るよう言われた。トラックを運転して20年、世間の表も裏もくまなく体験したが、今回は国のやる工事だ。教育の場で聞いた指針をその通りに守った。彼が運転するトラックの速度計は10~20kmを越えなかった。
何日かして現場管理者が彼を呼び止めた。「カンさんは我々とはどうも合わないね。これじゃ一緒に仕事はやれないなあ…」彼はほとんど手を合わせるようにして頼み込んだ。「もう一度だけ機会を下さい」その日から釜山男児カン・ヨングは時速30キロで工事現場を走った。 砂をうず高く山盛りに載せたダンプトラックは未舗装道路の上で狂ったように揺れた。トラックの修理費に月150万ウォンを使った。一日4000ウォンの昼代まで差し引けば、彼が手にするのは月300万ウォン程度だった。仕事のある工事現場では、機会があるだけ稼いでおかなければならなかった。さらに速く走らなければならなかった。
2010年11月27日午後、ダンプトラック運転手カン・ヨングの運が尽きた。トラックに轢かれて人が倒れた。洛東江(ナクトンガン)14工区の下請け業者プギル建設で仕事を始めて8ヶ月目だった。
倒れた人の顔には見覚えがあった。コンテナ宿舎ですぐ隣の部屋に泊まっているアン社長だった。撒水車の運転手だがいつも“社長”と呼ばれていた。一週間前には夕食を共にしマッコリも汲み交わした。アン社長は口数が少なかった。代わりに気さくによく笑った。「社長さん! 社長さん!」呼んでも揺さぶっても、眠ったように横たわったアン社長は動かなかった。
撒水車の運転士が死亡した
責任者も労災処理もなかった
同僚のダンプ運転手だけが一人,前科者になっただけ…
14工区事故当時 信号手はいなかった
ダンプの運転士は会社を信じ
「信号手がちょっと席を外していた」と言ったが
会社は徹底して彼を見捨て、
事件は単純交通事故として処理された
←5月25日午後、慶南咸安郡漆西面洛東江事業18工区で、ダンプトラックが川底から浚渫した砂を載せて移動している。 咸安(ハマン)/キム・ミョンジン記者 littleprince@hani.co.kr
事故の翌日、息子は、父親と一緒に撮った最初で最後の家族写真を取り出した。2009年冬、父は息子娘孫たちと一緒におそろいのTシャツを着て写真を撮った。 そして家族写真を撮ったあと、黒い洋服に着替えて遺影写真を撮った。 写真の中の父は笑っている。
写真の外の父は言葉なく横たわっている。息子アン・テシク(33)が慶南金海(キムヘ)のある病院に到着した時、父は裸のまま白い布で覆われていた。 10分余り検案した医師が言った。「内臓出血による死亡です」そばにいた金海中部警察署交通調査係の警察官が言った。「現場は全て片付けてしまいました」父が倒れて横たわっていた冬の川岸には冷たい風が吹きつけていただろう。「それでも現場に行ってみますか?」遺品を渡しながら警察官が尋ねた。 父の携帯電話だった。
それが父のいくつ目の携帯電話なのか息子は知らない。父は屑鉄を運ぶダンプトラックを20年以上運転していた。 工事現場や廃品回収業者で屑鉄を集めて製鉄会社に納品した。運転席の屋根の上に上がって荷台を整理する時、ポケットから携帯電話が滑り落ち屑鉄の間に落ち込む。そうやってなくした父の携帯電話が50台余りになる。
年を取って屑鉄の仕事がきつくなった父は、事故の数ヶ月前にダンプトラックを処分して撒水車を買った。 撒水車の運転手は工事現場に砂埃が立たないよう水を撒けばいいだけだ。 事故の少し前、家族だけでつつましく父の還暦祝いをした。「今度は国のやる工事だから給料を踏み倒されるようなことはない。」 洛東江(ナクトンガン)14工区で働き始めた父が言った。 常に貧しさに追われてきた家族は久しぶりに笑った。
事故の前の晩、父は久々ぶりの電話で腹を立てた。 父のあとについてダンプトラックの運転手になり今は大工の仕事をしている息子は、無愛想に電話を切った。 小言にはもううんざりだった。 「33にもなって、どうして結婚しないんだ。」 それが父の最後の言葉となった。 父の死は労災ではなく単純交通事故として処理された。 父を轢いたダンプトラックの運転手だけが立件された。 現場責任者などは何の責任も負わなかった。
建設会社と合意する際、労災処理にせず、民事上の責任もこれ以上問わないことにしたと息子は説明した。 「葬儀場で(会社関係者と)会って、葬儀場で合意して、葬儀場で全部終りにした」と息子は言った。 「法廷に行っても負けることは目に見えているから、時間が長引いて出棺できないのは嫌だった」と。 しかし息子は父とともに働いていたダンプトラックの運転手を許してはいない。
20年間トラックの運転だけやってきたカン・ヨングは、遺影の前で二度お辞儀をした。 喪主にもお辞儀をした。 「本当に申し訳ありません。本当に申し訳ありません」喪主は顔を背けた。 翌日また葬儀室を訪ねた。 内ポケットに封筒を忍ばせていた。 彼は2千万ウォンを封筒に入れた。 自分が稼いだ金に70の老母がハクサイ畑やネギ畑で日雇い仕事をして一日3万5000ウォンずつもらって貯めたお金を合わせたものだ。 そんなに大きな金を手にしたことは生まれて初めてだった。 何日か前被疑者尋問を受けに慶南金海中部警察署に行った時、担当刑事が言った。「遺族と合意できなければ拘束されることもあります」
彼には中学生の息子と小学生の娘がいる。 四十三のカン・ヨングは十才年下の喪主の前にひざまずいた。 「私は無能で、お金はこれしかないんです。 どうか一度だけ助けて下さい」 喪主の態度は冷たかった。「父が亡くなったというのに、ひざまずかれたって何になるんです? そんな金が何になると言うんです?」
交通事故の被疑者カン・ヨングは弁護士事務所を訪ねて行った。合意金として用意した2000万ウォンのうち600万ウォンを割いて弁護士を選任した。供託金に1000万ウォンを預けた。去る3月11日、昌原(チャンウォン)地方裁判所で公判が開かれた。 10分で終わった。 判事はカン・ヨングに禁固1年、執行猶予2年、社会奉仕120時間を宣告した。
この5月末まで彼は釜山(プサン)のある療養病院で毎日8時間ずつ清掃し社会奉仕を終えた。彼と契約していた建設会社は再び仕事をくれはしなかった。 老母が畑仕事で家族を養った。 罰だった。 亡くなった人に対して、たった一人で罪の償いをしたのだった。
事故がおきた2010年11月27日以来、彼は毎日のように酒を飲んでいる。 焼酎の杯を空ける毎に恨みが積もっていく。「ピッピッピッ、ピッピッピッさえあったなら、こんなことには…」彼のダンプトラックは後進警告音システムが故障していた。 「自分の過ちではあるが…、それ直してこいと、安全点検を受けろと、会社が一度でも言ってくれていたら…」恨みは建設会社に向かう。「事故現場に信号手はいなかったが、『もともと配置されていたが、ちょっと他へ行っていた』と警察で陳述した」と彼は言った。 そのように言えば、今後仕事をするのに会社が助けてくれるだろうと思った。 彼の陳述は、この事件を労災でなく交通事故として処理する決定的理由となった。
下請け業者のプギル建設側はこれを否認した。「もともと信号手がいたのであって、カン氏に偽りの陳述をさせたことは全くない」と説明した。 事故現場の真実を誰か見た人がいただろうが、目撃者陳述のために名乗り出てくれる現場労働者はいなかった。 元請け業者のテア建設は今回の事件から身を引いている。 カン・ヨングも元請け企業を訪ねて行ったことはない。 大会社はダンプトラック運転士の相手ではなかった。 そのようにして、60代の撒水車運転手が死亡し、その息子である30代の大工は許さなかった。そして40代のダンプトラック運転士は前科者になった。
パク・スジン、ユ・シンジェ記者 jin21@hani.co.kr
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彼らの死を“交通事故”と呼ばなければならないのか
錦江(クムガン)のフォークレーン技師も…洛東江(ナクトンガン)の信号手も…
工事現場でむごたらしい事故に遭い
キム・ジョンテ氏は1982年光州(クァンジュ)でフォークレーンの仕事を始めた。 フォークレーンを7台まで増やして事業を拡大したが、不渡りを出した。 全てを処分し全国を回って仕事をしながら他人のフォークレーンに乗った。2008年破産申請をした後、借金取りが現場に来るか心配になり、他人の免許証を盗用して働いた。稼ぎのいい夜間作業だけを選んで働いた。月給はそっくり家に送った。
去る3月から忠南(チュンナム)青陽郡(チョンヤングン)錦江(クムガン)6工区で一日10時間ずつ働いた。 キム氏が亡くなった4月18日は契約の最後の日だった。 他のフォークレーン技師の携帯電話をちょっと借りた後、自分のフォークレーンに戻る途中でパク・某(36)氏のダンプトラックに轢かれて死亡した。事故当時、彼の財布にあったのは、現金2000ウォンと他人名義の免許証だけだった。 車主が月40万ウォンで借りてくれたモーテルの部屋には、花見に行く約束をして妻と同じ色のを合わせて買ったジャンパーが商標もまだ付いたままかかっていた。
キム氏が死亡するとダンプトラック技師のパク氏は交通事故処理特例法違反の容疑で不拘束起訴された。 パク氏は事故の1年前から錦江6工区に出入りしていた。 事故直後の一週間は家の外には出られなかった。 光州駅前で遺族と合意した。 遺族の沈痛な表情を見てからは二度と錦江の工事現場付近に行くことができなかった。 毎月400万ウォンずつ返さなければならないダンプトラックの分割払い期間はまだ1年残っている。 9才・7才の二人の娘と4才の息子のために他の工事現場を当たっている。
キム・サンギュ氏は慶南金海市洛東江11工区で信号手として働いた。 昨年10月28日午後1時20分、後進していたアン・某(32)氏のダンプトラックに轢かれて亡くなった。 キム氏を轢いてしまったアン氏は、結婚を半月先に控えた予備新郎だった。 アン氏は新婦に到底事故のことを知らせることができないまま結婚式場に立った。「仕事をすれば忘れられる」という同僚の言葉に再びハンドルを握った。 交通事故処理特例法違反容疑で起訴され、去る4月22日 禁固1年に執行猶予2年を宣告された。
ソン・ギョンファ記者 freehwa@hani.co.kr
4大河川での死亡事故は労働者の責任か?
4大河川工事現場で労働者が死ねばその責任はまた別の労働者に回される。工事現場でダンプトラックを運転して他の労働者を轢き死亡させた運転手5人は、事件直後交通事故処理特例法違反の容疑で起訴された。 事故責任をダンプトラックの運転手に問うことができない場合、当局の捜査はのろのろと進められる。 警察庁が民主党イ・ソクヒョン議員に最近提出した資料を見れば、去る2月以降に発生した事故8件のうち6件がいまだに捜査中だ。人の死に対し責任を負うべき人が誰なのかが、まだ不明の状態だ。 警察の捜査が終わり検察が起訴した残り2件の加害者は、ダンプトラックの運転手だ。
4大河川での死亡事故18件の中で、現在まで警察または労働部が建設会社法人や現場所長を立件したことが確認されたものは6件だ。 しかし立件後に建設会社がどんな責任を負うことになるかは依然として疑問だ。 まだ交渉中であるか交渉内容が確認されていない4件を除いた死亡者15人の遺族たちは、皆「今後いかなる名目でも民事・刑事上の異議を提起しない」という字句の入った合意書に署名している。
パク・スジン、ユ・シンジェ記者
写真 キム・ジョンヒョ記者 hyopd@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/480886.html 訳A.K