原文入力:2011-05-10午後08:08:07(1809字)
キム・ジョンチョル
←キム・ジョンチョル政治部先任記者
イ・ミョンバク大統領が9日ドイツのベルリンで、北朝鮮の非核化合意を条件に来年3月ソウルで予定されている第2次核安保首脳会議にキム・ジョンイル北朝鮮国防委員長を招請する意思を明らかにした。“統治者の政治的な、そして積極的なメッセージ”という政府当局者の意味付与を考慮するならば、これはイ・ミョンバク版“ベルリン提案”なわけだ。
一寸見たところでは、2000年3月南北当局者間対話を提案したキム・デジュン当時大統領の“ベルリン宣言”と非常に似ている。 ドイツ分断と統一の象徴であるブランデンブルク門を訪問し、ベルリン市長に統一の経験談を聞くという日程が全く同じだ。 南北関係が複雑にこじれている状況も似ている。 キム・デジュン政府の南北関係は就任後2年間梗塞局面を抜け出すことができなかったし、イ・ミョンバク政府もこの3年余りの間葛藤が持続している。
そのような状況でキム前大統領のベルリン宣言は、八方塞りだった南北関係を突き抜ける突破口になった。 特使交換を通じてその年6月の歴史的な南北首脳会談までつながり、南北は対 立と葛藤の時代から和解と協力の新しい段階へと進んだ。
イ大統領の“ベルリン提案”も転換点になるだろうか? 2000年当時のように当局会談や南北首脳会談につながるだろうか? 変数が多くて速断する訳には行かないが、現在の状況から見るならばうまく解決しそうでない。 何よりも11年前のDJ(キム・テジュン)のベルリン宣言と数日前のMB(イ・ミョンバク)のベルリン提案は、前後の脈絡や接近法などが大いに違うからだ。
先ず、キム前大統領は対北朝鮮和解政策を一貫して推進した。 就任後、東海岸武装スパイ浸透(1998年7月12日)と長距離ミサイルのテポドン1号ロケット発射(同年8月31日), 第1次西海交戦(1999年6月15日)等北朝鮮の挑発が続いたが、金剛山(クムガンサン)観光を開始(1998年11月18日)し、第2次北京肥料次官会談(1999年6月21日)も予定通りに開いた。 反面イ・ミョンバク政府は天安(チョナン)号事件以後すべての対話窓口を閉鎖し、民間次元の対北朝鮮交流および支援までも遮断した。 先週の改閣時には“強硬基調の持続”を知らせるために、予定されていた統一部長官更迭も翻意した。
第二に、キム前大統領の対話提案には何の条件もなかった。 だが、イ大統領の提案には“非核化についての国際社会との合意”と“テロについての謝罪”という敷居の高い前提条件が二つも付いている。
第三に、キム・デジュン政府はベルリン宣言の内容を 米・日・中・ロの周辺4ヶ国だけでなく北朝鮮にも事前に知らせた。 政治的ショーでないことを分からせるためであった。 しかしイ・ミョンバク政府はベルリン提案を米国とだけあらかじめ協議し、北朝鮮などあとの国には知らせなかった。
第四に、キム前大統領はベルリンで「ドイツ統一は南北間の和解と協力を成し遂げるにおいて大切な道案内である」として「統一よりは冷戦終息と平和定着」が必要だと強調した。 これに比べてイ大統領は「大韓民国の願いである統一の息吹が感じられる」と言って統一の願いを何度も力説した。
こうした点から見れば、北朝鮮の反応を察するに難くない。 ただでさえ吸収統一に対する恐れが大きい状況で、真実性も見えない提案に応じるわけがあろうか。 誰が見てもあまりにも現実性がない。 だから、実現しないと分かっていながら国内政治用にベルリン提案を行なったという陰謀説的分析まで出回るのだ。
残りの任期が短いが、イ大統領が北朝鮮を変化させて南北関係を真に発展させる意志があるならば、成功の道はある。 遠いドイツでなく近いDJに学ぶことだ。 『キム・デジュン自叙伝』と『ピースメーカー』等、出版されている本を数冊読んでみるだけでも答えはすぐに見つかるだろう。
キム・ジョンチョル政治部先任記者 phillkim@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/477231.html 訳A.K