原文入力:2011-01-27午後08:09:37(2058字)
キム・ミンギョン記者
サハリン強制労務者 最大3万人
34%が死んだり失踪…ソ連抑留が理由 生還比率 低い
政府が日帝強制占領期間のサハリン強制動員者の規模が解放当時基準で最大3万人と推定され、この内34.3%が死んだり行方不明になり帰ってこれなかったという公式的な調査結果を出した。
対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会(委員長 オ・ビョンジュ)は27日、‘サハリン強制動員朝鮮人らの実態および帰還調査報告書’を出し、1945年解放当時南サハリンに住んでいた朝鮮人4万3000余人の内、朝鮮人男性の70%に達する3万人余りが強制動員された労務者と推定されると明らかにした。また、2010年12月23日現在の南サハリン労務動員被害申告受付および処理の結果、強制動員者の内、死亡者が14.9%、行方不明者が19.4%で全体動員被害者の34.3%が帰ってこられなかったことが分かった。
他の地域に比べ南サハリン地域への強制動員者などの生還比率が低い理由として、委員会は「解放直後、ソ連の抑留を日本とアメリカがほう助し黙認したため」 と指摘し、墓地実態調査および遺骸奉還努力の必要性を強調した。
強制動員者は南サハリンの56ケの炭鉱の内、35ケの作業場と8ケの製紙工場、10ケ飛行場などで仕事をしたことが確認された。 これら作業場の内、相当数は三菱、三井、王子製紙、日鉄系列など日本の大資本が運営した所だった。 露・日戦争後、南サハリンを統治した日本は1930年代中盤に炭鉱開発を本格化し朝鮮人労務者を強制動員した。 労務者たちは永住帰国が始まった1990年に入ってからようやく故郷に戻ることができた。 キム・ミンギョン記者 salmat@hani.co.kr
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日本軍・企業 中国でも慰安所運営
海南道地域で6年間に少なくとも210人が被害
中国、海南道で日本軍と日本企業が主導し1939年から1945年まで慰安所を設置・運営した事実が明らかになった。中国地域で日本軍と企業が慰安所を運営していた事実が政府次元の調査を通じて明らかになったのは初めてだ。
対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会(委員長 オ・ビョンジュ)は27日 ‘海南道へ連行された朝鮮人性奴隷に対する真相調査報告書’を発表し、海南道主要地域に軍人だけでなく労務者のための慰安所が設置され、慰安所ごとに少ないところで5~6人から最大50人を越える韓国人女性たちが動員され被害規模は少なくとも210人と推定されると明らかにした。
1939年、海南道を侵略した日本は軍事施設と資源収奪のための作業場を作りながら慰安所も共に設置したと調査された。日本軍の保護の下、台湾拓殖株式会社などが慰安所建設と慰安婦募集に積極的に介入し、慰安婦たちはトラックで転々として軍部隊内で性奴隷生活を強要されたことが現地調査と被害者陳述調査を通じて明らかになった。 キム・ミンギョン記者
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‘炭鉱地獄 ’麻生鉱業に1万1千人
麻生前日本総理家 所有…苛酷行為 横行
麻生太郎前日本首相の家の所有であり戦時日本で ‘炭鉱地獄’ として悪名が高かった‘麻生鉱業’が1939年から解放される時まで強制動員した朝鮮人の規模が1万1千人余りに達すると調査された。
対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会(委員長 オ・ビョンジュ)は27日 ‘戦時体制期 九州地域の麻生鉱業(株)強制動員被害者に対する真相調査’ 報告書を通じてこれを公開した。報告書はまた、1944年1月末基準で、麻生鉱業が強制動員した朝鮮人の数は麻生鉱業全体労働力の40%以上であり、福岡地域で朝鮮人を強制動員した企業の中で7番目の規模と明らかにした。
麻生鉱業は1920年代から朝鮮人労務者たちに苛酷な労働を強要し、1932年には‘麻生朝鮮人争議’が起きもした。当時、朝鮮人労務者たちは一日に10時間を超える長時間労働と足りない食事量、脱走失敗者に対する苛酷な殴打などにさらされ、一部炭鉱には腸チフスなどの伝染病まで広がったと被害者たちは述べた経緯がある。
委員会は2010年12月までに麻生鉱業に動員された労務者247人の被害を確認し、「麻生鉱業と関連した朝鮮人の被害を正確に把握するには日本政府と麻生企業の前向きな資料協力が必要だ」 と強調した。 キム・ミンギョン記者
原文: 訳J.S