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庚戌国恥現場に標示石 2つ立つか

原文入力:2010-08-20午後09:01:44(1354字)
ソウル市、国恥以前の亭子の名前を取り'鹿川亭跡’決定
市民団体 "辛い歴史の記憶を" '統監官邸跡’推進

キム・ギョンウク記者、キル・ユンヒョン記者

←1911年<日本誌 朝鮮>に載せられた当時の統監官邸の姿

庚戌国恥100年を迎え我が国社会が外には‘併合条約の不法性’を強調しながらも、実際に我が国内部では併合条約が調印されたソウル、南山統監官邸跡に標石一つを立てることを巡っても意見が分かれている。
ソウル市が20日、この場所の標石の名前を‘鹿川亭跡’に決めるや市民団体らは国恥100年の歴史性を生かすことのできる‘統監官邸跡’が相応しく別途の標石を設置するとして反発している。

先立ってソウル市は去る18日、標石設置諮問委員会(諮問委)を開き、現在の南山、ソウル防災本部とユースホステル間の空地の統監官邸跡に立てる標石の名前を‘統監官邸跡’ではなく‘鹿川亭跡’と決定(<ハンギョレ> 19日付10面)したと、この日明らかにした。ソウル市は9月頃に諮問委を再び招集し文案を確定した後、国立国語研究院の監修を受け10月初めに標示石を設置する予定だ。

だが、100ヶ余りの韓日市民団体が集まった‘強制併合100年共同行動韓日実行委員会’(実行委)は国恥日にあたる29日、この場所に‘統監官邸跡’という標示石を設置すると予告した。パク・ハンヨン実行委共同執行委員長は「私たちは美しい歴史だけを記憶するのでなく、辛い歴史も記憶する必要がある」として「標示石の名前を‘統監官邸跡’と決め、強制的不法的に締結された併合条約の現場を知らせる必要がある」と話した。ソウル市はひとまず実行委の標示石設置を許容するものの、後日に標示石移転を要請する方針だと知らされた。

問題のこの場所には、朝鮮 哲宗の時に領議政を務めた文臣 朴永元が1851年に鹿川亭という亭子を作り、以後1884年甲申政変の時に日本公使館が燃え日本がこの場所を奪い公使館を建てたと伝えられている。以後、1905年乙巳条約の後には統監官邸、1910年併合条約が締結され総督官邸などに名前が変わった。

キム・スジョン ソウル市文化財課調査研究チーム長は 「景福宮前に朝鮮総督府があったからと景福宮を朝鮮総督府とは言わないように、こちらもやはり‘鹿川亭跡’にして恥辱の歴史を記録することが望ましい」と話した。

だが、ハン・ホング聖公会大教授(国史学)は「統監官邸跡に歴史的に意味があるのは、こちらにソウルの数多くの亭子の中の一つである鹿川亭があったからではなく、国を奪われた恥辱の席であるため」として「朝鮮王朝の正宮である景福宮と比較するのは無理」と反論した。歴史研究者イ・スンウ氏も「鹿川亭は伊藤博文が残した七言絶句風流時‘南山脚下緑泉亭’に登場するなど統監官邸という客観的名称より我々には一層気分の悪い名前でもある」と話した。

キム・ギョンウク、キル・ユンヒョン記者 dash@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/436052.html 訳J.S