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"日本は口を閉ざしているが、事実上 韓国戦争 参戦国"

原文入力:2010-06-28午後09:10:50(6226字)
‘元山上陸’掃海部隊 派遣…戦死者も出た
旧日本軍出身ら 米軍助け兵たん業務も
日本政府 北韓との修交に備え 事実公開 敬遠
1998年‘海上保安庁 50年史’で初言及

←韓国戦争の時、特別掃海部隊の派遣を指示した吉田茂当時総理(前列右から3番目)が掃海部隊員たちと共に撮った写真。太平洋戦争終戦後に進駐した米軍は、日帝の戦力全て解体したが、日本沿岸の機雷除去作業のために掃海部隊は存続させた。 <ハンギョレ>資料写真

‘韓国戦争と日本’を研究してきた大沼教授
韓国戦争が日本に及ぼした影響は経済的再興の跳躍台準備、再武装、公安機構の再整備、反動政治勢力の復活など内政次元に止まらなかった。日本は韓半島に掃海艇部隊を送り軍事作戦に参加し、太平洋戦争当時 米軍の空襲から逃れ破壊を免れた軍需施設を全面稼働させ、国連軍に弾薬を供給するなど軍事的に関与した。だが、日本政府の秘密主義のためか、こういう軍事的側面に対する研究はそれほど活発ではなかった。この部門の専門家に挙げられる大沼久夫(60)共愛学園前橋国際大学教授に去る5月20日学校を訪ね話を聞いた。彼の著書としては<朝鮮分断の歴史1945~1950> <朝鮮戦争と日本>などがある。

-日本が韓国戦争に参戦したと言えるか?

 "朝鮮戦争が勃発するとすぐに占領軍総司令官のマッカーサー将軍は1950年7月8日吉田茂総理に警察予備隊を作るよう指示し、再軍備の道を開いた。警察予備隊は日本が独立して自衛隊に変貌した。戦争勃発当時 日本に軍隊はなかったが、韓半島の地理地形をよく知っている旧日本軍出身らがいた。これらは占領軍司令部の情報組織(G2)に協力し国連軍の上陸作戦などを助ける情報提供を行った。一部は上陸用艦艇(LST)に船員として乗船し一種の兵たん業務を担当した。戦闘に直接参加しはしなかったが、後方で戦争遂行を支援した。従って日本が広い意味で参戦国だったと言える。吉田総理もできる限り協力しろと言った。国連軍に血液を送ろうという献血運動が広がり、仁川・釜山などの地で連合軍艦艇を修理したり港湾浚渫作業をした日本人も相当数いた。"

-日本が韓国戦争に参加した真相というか全体像がまだ明確に整理されていない背景は何か?

 "日本の外交文書公開がずっと遅れている。韓-日国交正常化交渉も韓国政府は関連文書公開を行ったが、日本はしていない。外務省は北韓との修交交渉に備え自身の手の内を見せようとしない。"

裕仁、マッカーサー会い
韓国戦争 勃発予想も

←大沼久夫(60)共愛学園前橋国際大学教授

-韓国戦争に協力したという資料もやはり公開していないのか?

 "そうだ。単に個人回顧録などとしてそのような協力実態が出てきたものはある。韓国戦争の時、海上保安庁長官だった大久保武雄が1978年に出した回顧録<海鳴の日々>で特別掃海部隊派遣を明らかにしたのが有名だ。だが、日本政府はそのような事実を全く公開していない。"

-本が出てきた後に日本政府が本の内容に対し正式に論評したことはないか?

 "ない。防衛研究所のようなところに特別掃海艇関連資料があるが、公式には話さない。国会で議員の追及があっても曖昧に答弁した。韓国で停戦協定が締結された翌年の1954年1月、ある共産党議員が‘元山上陸作戦に日本の掃海艇が参加したというが事実か?’と尋ねるとすぐに吉田総理は‘何も覚えていない’としてやり過ごした。"

-1998年に刊行された<海上保安庁50年史>には1950年10月、連合軍の命令により特別掃海艇25隻が‘朝鮮水域’の掃海作業に参加し19人の死傷者を出したという言及があると言ったが、それが日本政府の公式記録としては初めてなのか?

 "そういうことだ。政府機関であるので日本政府が初めて認めたと見ることもできる。大々的に発表したわけではないが、そのように書いている。"

-50年史以後、さらに詳細に言及した政府資料が出てきたことはないか?

 "ない。なぜそんなことを書いたのかと指摘されたかも知れない。徒に厄介なことを書いたと海上保安庁内部で議論したかも知れない。"

-掃海艇沈没で死んだ一人以外にも戦死した人がいたか?

“連合軍の日本占領はサンフランシスコ講和条約が発効された52年4月28日に終わった。占領期間中、言論検閲が実施され日本人の戦死などは報道されなかった。日本が独立を回復してから韓国戦争期間中に実際にこういう事があったという小さい記事が出てき始めた。その中には米軍部隊でペイント工や料理人をしていて韓国で戦死または失踪したという個別的事例がある。北韓軍に捕虜として捕まっていると手紙を送った日本人もいた。”

-韓国戦争で掃海作業をして死んだ海上保安庁職員は何人なのか?

“元山沖で死んだ一人だけと言われている。その他に神奈川県管轄の曳き船が韓国水域で機雷にあたり沈没し日本人船員22人が亡くなった事故がある。また、日本の主要港から韓国に各種物資を運ぶLSTに搭乗した船員の中で事故に遭い亡くなった人々がいる。米軍と船舶会社の間に行き来した電報にはこれらを‘マリナー’と表記した。実際に海軍兵士のように仕事をしていたが、法的には民間人、海運会社の船員として扱われた。”

-裕仁天皇(日王)が韓国戦争の勃発を予想し韓半島情勢に深い関心を持っていたと言ったが?

“マッカーサーは日本に進駐しトルーマン大統領によって総司令官職を解任され帰国するまでに天皇に11回会った。当時の通訳が整理したメモによれば、天皇は共産勢力が韓半島から攻撃してくるのではないかと尋ねることもした。韓国戦争を予想したと考えられるほどだ。天皇は政治的感覚がとても鋭い人だ。51年5月天皇がマッカーサーの後任リッジウェイ将軍に会った時、2人の対話が韓国戦争に関する軍事情勢に集中したという。天皇が兵力交換、ゲリラ戦対応策、制空権問題、中国軍の戦略、避難民対策などを尋ねた。天皇の態度はあたかも日帝時に大元帥をしていたことを彷彿させたということだ。”

-イ・スンマン政権が日本に亡命政府を建てるという話まであった。

“当時、韓国政府が北韓軍の初期攻勢に押され大邱まで押し出された時、そのような話が出た。韓国避難民をどのように受け入れるかという議論もあった。仁川上陸作戦で共産軍が北に押し出されるとすぐに全てがなかったことになったが、非常に情勢が緊迫していた。例えば山口県のように韓半島に隣接した地域では、韓半島情勢は単純に対岸の火事ではなかった。実際に当時、山口県知事であった田中龍夫は戦争が勃発する前から独自的判断で韓国に情報要員を送り、情報を収集し情勢を分析していた。彼は陸軍大将出身で1920年代末に総理を歴任した田中義一の長男だ。”

民団で義勇兵募集するや
神風出身まで志願

‐北韓軍の侵攻があるや、衆議院議員 世耕弘一、右翼界の大物 児玉誉士夫は日本人義勇兵を韓国に送らなければなければならないと主張し、マッカーサー将軍に許諾を要求する手紙を送った。これは個人の突出した行動なのか、あるいは右翼保守陣営の一般的情緒を代弁することなのか?

“右翼民族派というが、日帝の軍人らと脈を引き継ぐ人々だ。日本社会で限定された意見とみるべきだろう。”

-田中耕太郎最高裁判所長官(大法院長)は当時、日本人が自衛のために韓国戦に参加することは法律上可能だという発言をした。法律解釈の最高権威を持つ席にある人の発言であり当然重きがおかれるが、吉田内閣と事前調整されたことなのか?

“田中が吉田総理と直接対話をして発言したとは思えない。彼は日本が独立すれば再軍備をしなければなければならないと考えた人だ。韓国戦争を再軍備をする一つの機会と見た。韓国に義勇兵を送っても法律上問題がないとした発言は再軍備論の延長線上から出たものだ。ところがマッカーサーが拒否し、イ・スンマン大統領も断り日本人義勇兵派遣は実現されなかった。”

-日本の左派陣営はどのように対応したか?

“社会党や社会党系労働運動団体の総評は韓国と国連軍を支持した。浅沼稲次郎社会党書記長は国連軍のために献血までした。だが、共産党は韓国が北韓を侵略したと主張した。共産党が南への侵略を認めたのはそれほど古いことではない。”

-民団の義勇兵募集に日本人も志願した。さらに神風特攻隊出身も混じっていたというが、敗戦後日本に働き口がなくてそうしたのか?

“そうした点もあるだろう。LSTに乗った船員も同じだ。危険はあるが給料などの条件は良かった。民団は日本人が志願した心情は理解するが断った。当時は戦後の混乱が続いた時で中国等の大陸に残っていた日本人たちの出入りが活発だった時期だ。そのような状況で日本人が朝鮮人・韓国人に偽装して韓国に行った人がいたかも知れないか、正式に日本人が義勇兵として参加したという記録はない。”

-米軍部隊に日系米国人が多く日本人の韓国戦参加説が広がったりもしたが?

“日系米国人将兵はハワイ・カリフォルニア出身がとても多かった。日本語が上手だったので北韓軍が彼らを見て日本人と考えたほどだ。北韓軍に捕虜として捕らえられた米軍手記を見れば、北韓は当時日本軍が大挙参戦したと非常に心配をしたという。中国義勇軍にはきわめて少数だが八路軍に入った日本人もいた。だから日本人たちも韓国戦争の時、南北両側に立って戦ったわけだ。”

前橋/文・写真 キム・ヒョスン大記者 hyoskim@hani.co.kr

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“米軍、4百万円渡し‘弟 死亡’箝口 要請
海上保安庁を訪ねると‘すべての記録’消えていた”

←中谷藤一が去る5月23日、大阪の自宅で靖国神社の返信文書を持ち自分の弟が韓国戦争に参戦し亡くなった経緯を説明している。

憲法上戦力を保有できず集団的自衛権の行使が禁止されている国で、韓国戦争の時に弟が戦死したとし靖国神社合祀を訴える日本人がいる。名前は中谷藤一(83),大阪に居住している。故郷の山口県周防、大島の漁村で育った彼は6人兄弟の次男だ。彼が戦後日本最初の戦死者と主張する人は2才年下の弟、中谷坂太郎。1929年生まれの坂太郎は16才の時に少年海軍志願兵に志願したが日本が4ヶ月後に降伏したために戦闘には一度も参加せずに除隊した。敗戦後の混乱期に彼は仕事を探し機雷掃海部隊に志願し下関に配置された。

1950年10月、米軍の指示で韓国海域で活動する特別掃海部隊が編成され下関に集結した。掃海艇13隻、巡視艇7隻などで構成されたこの部隊は38度線を越え永興湾へ行き国連軍の元山上陸作戦に先立ち機雷除去をするよう命令を受けた。10月17日午後、掃海艇が列をなして作業をしている間、MS14号が蝕雷で爆発し、あっという間に沈没した。排水量135tのこの船に乗った乗務補助員27人の内、18人が重軽傷を負い1人が亡くなった。唯一の死亡者がまさに中谷坂太郎だ。彼は船の炊事担当だった。夕食準備のために後尾の炊事室にいた彼は他の乗務補助員らとは異なり救命胴衣を着ておらず被害に遭った。

除籍謄本 記録 死亡位置
元山沖に間違いない

掃海艇沈没事故が起き1週間ほどが過ぎ、占領軍司令部の米軍将校が海上保安庁職員と通訳を同行して中谷の故郷の家に訪ねてきた。中谷藤一は当時大阪にいて米軍将校一行に直接会えなかった。米軍将校は韓国戦争で戦闘作業中に船が機雷に触れ沈没したために一人が行方不明になったが坂太郎のようだと通知した。彼はまだ捜索作業が進行しているが、万一日本人が韓国戦争に従事し殉職したということが知らされればとても困難な事になるとして一切公開しないことを要求した。彼はまた、韓国ではなく日本の内海の瀬戸内海で機雷除去作業をしている間に死亡したことにしてくれないかと尋ねた。

米軍将校は十分な補償をし父親に年金も与えるといった。藤一は米軍側が400万円を持ってきたといった。現在の相場にすれば約2億円になる大金だ。当時は最も高額券が100円であったので、札束も途方もなかった。藤一はお金の出処が日本政府ではなく米軍だと話し性格については一種の口止め料だと言い切った。だが、年金の話はうやむやになった。

日帝時、天皇の近衛兵を務めたことを誇りにしていた中谷の父親は戦勝国である米国の要請を拒否すれば家族全員が抹殺されるかも知れないと心配をしたといった。それで家族兄弟一家親戚に息子の死亡経緯を絶対に口外するなと厳命を下した。少し後に遺骨箱が家にとどいたが写真だけが入っていた。年が変わり、1951年広島、呉港で海上保安本部葬で葬儀を行うという通知がきた。藤一は父親から葬式に行ってみろとの話を聞いた。当時、大阪で消防署員として就職していた彼は行くことができなかった。公務員であり休暇を出すには宿泊地・目的などを明らかにしなければならず弟の死亡経緯を話すことができずあきらめた。結局、父親が参加した。

藤一は消防署員として仕事をしながら弟の死に対する真相を知りたくて資料を集めようとしたが特別な進展はなかった。1978年坂太郎に勲8等の勲章が授与された。藤一はついに弟の殉国を国家が認定したという気がして、靖国神社から連絡が来ることを期待したが何の通知もなかった。それで神社を訪問し断片的資料を見せ合祀してくれと要請したところ、何の事故で殉職したのか官庁の証明書を持ってこいと言った。驚くべきことに海上保安庁には当時の記録を全て焼却処分したのか何もなかった。藤一は掃海部隊派遣が戦争放棄を明示した憲法9条に抵触するため、政府が関連記録を全部なくしたと見ている。

藤一が唯一捜し出した官公庁の記録は除籍簿だ。日本で人が死ねば戸籍から消される代わりに除籍部に上げ100年間保存するようになっている。ひょっとしたらと思い、故郷の官庁に弟の除籍謄本照会をすると“昭和25年(1950年)10月17日午後3時30分北緯39度12分34秒東経127度35分37秒で死亡。第7管区海上保安部長報告 昭和26年(1951年)6月5日”と記されていた。緯度と経度から見て弟が亡くなった場所は元山海域であることは間違いなかった。

藤一は2006年にこの除籍謄本などを根拠に靖国神社に弟の合祀を要求した。‘大東亜戦争’(太平洋戦争)の戦没者までの合祀をしていて、韓国戦争は対象外という返事がきた。彼はあきらめずに2009年に再び要求書を送ったが同様の趣旨の返信がきた。藤一は靖国神社が懸案の敏感性を考慮し返事をする前に関連政府機関と十分な協議を経て文案一つ一つを細かく整えたようだと話した。

大阪/文・写真 キム・ヒョスン大記者

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/427852.html 訳J.S