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虐殺被害者が加害者に…戦争が隣人を変えた

原文入力:2010-06-22午後08:33:53(1864字)
左翼に家族を抹殺された警察
共匪討伐の時、近隣住民 銃殺
傷で汚された村人たち "再び暴いてみても感情を傷つけるだけ"

ソン・ジュンヒョン記者

← "あそこが父の埋められたところです"  1951年、戦闘警察により父親が殺害されたファン・ヨンソプ氏が去る10日‘くやしくうらめしいけれど恐ろしくて’ 59年間訪ねることのできなかった父親の虐殺現場である全北高敞郡、茂長面、道谷里柿の木谷を訪ね手で指している。

[韓国戦争60年] 高敞 月林里‘集団虐殺 傷痕’
九十歳になろうとするキム・ヨンシク(89)氏にとって韓国戦争は依然、現在進行形だ。

韓国戦争の真っ最中だった時、全北警察局第18戦闘警察大隊第3中隊長だった彼は‘共産軍討伐作戦’を行った1951年5月10日、全北高敞郡、茂長面でチョン氏一家など月林里住民89人を集団銃殺した。

理由は簡単だった。報復だった。1950年10月頃、龍田村の左翼たちと竹林村のチョン氏らが彼の一家 53人を虐殺したためだ。亡くなった人々の中にはキム氏の母親、身ごもった妻、長女、小さな娘も含まれていた。身ごもった妻と2人の娘を失った彼の心の中にはどんな思いが去来したのだろうか。

キム氏は当時、軍法会議に回され無期懲役が宣告され15年刑に減刑され刑期を終え出所した。彼は今、当時のことをどう思っているだろうか?

<ハンギョレ>はキム氏と接触を試みたが会えなかった。彼の息子は去る21日「時期がくれば、どうしてまた人を困らせるのか」と言って電話を切った。彼の娘は「耳がちょっと遠いが体は健康だ」と話した。被害者だったが加害者になったキム氏と家族たちの胸中に埋められた傷はそれだけ深そうに見えた。

被害者側のファン・ヨンソプ(75・高敞邑)氏の胸中にも戦争はまだ終わっていなかった。ファン氏を含め<ハンギョレ>が去る10日に会った高敞月林里犠牲者遺族たちは今でもキム・ヨンシク氏が 「その時は本当に申し訳なかった」と一言伝えることを願っている。

ファン氏はこの日‘くやしくてうらめしいけれど恐ろしくて’59年間訪ねることのできなかった父親の虐殺現場を訪ねた。彼の父親はファン氏が16才の時、月林里のある大きな家に立ち寄り、警察に‘理由も分からないまま’殺害された。月林里から陽谷里を経て道谷里柿の木谷(柿木洞)の殺害現場へ行く間、ファン氏は「まるで私が父親になって縛られて行く感じ」と言った。彼は「罪のない人をどうしてこのように殺せるのか」として、しばし言葉をつぐことができなかった。

虐殺現場である道谷里に暮らすキム・スンテ(79)氏は「(犠牲現場に近い)陽谷里パン川そばで父親と田を耕し苗代を作っていると、月林里の住民たちがぞろぞろと縛られてやってきた」と証言した。彼には機関銃の音に驚いて家に逃げた記憶がぼんやりと残っている。キム氏は「生存者がいた」と記憶をたどったが、生存者が誰であったか、今も生きているのか死んだのか確認する方法はない。あまり高くない山の渓谷への入口は当時、血の海になったという。
ファン氏は父親を失い、家長の役割を引き受け米穀商を始めた。彼は 「その時苦労して食べられなかったので自分の背丈がそれ以来 小さい」と話した。ファン氏は「キム・ヨンシク氏が謝罪し、被害者遺族に対する補償もはやくしなければならない」と慎重に語った。虐殺が起きた月林里竹林村の人々は当時のことを思い出させることさえ敬遠するといった。チョン・ムニョン(56)里長は「再び掘り起こしてみても感情が傷つくだけ」と話した。他の人々も 「その時は異郷に行っていてよく分からない」と言葉を慎んだ。

‘真実和解のための過去史整理委員会’(真実和解委)は2007年 「韓国戦争時期にあった‘高敞月林事件’は警察が私的報復次元で行った民間人集団犠牲事件」と規定した。だが、今 変わったことはない。加害者は加害者なりに、被害者は被害者なりに、戦争の傷が依然として広く深い。ファン氏は「(真実和解委)報告書一つで国家が自らの役割をすべて果たしたと言えるのか」と反問した。

高敞/文・写真 ソン・ジュンヒョン先任記者 dust@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/426921.html 訳J.S