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修復地域 民衆にとって6・25は何だったのか

https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/421599.html

原文入力:2010-05-19午後09:28:05(1570字)
ソウル大 奎章閣研究院‘韓国戦争60年’シンポジウム
大韓帝国・日本帝国・人共・米軍政・韓国…
5ヶ国家に属し被った経験 研究 注目

チェ・ウォンヒョン記者

江原道、襄陽郡、襄陽邑の海岸の村であるK村は解放直後には人民共和国に、韓国戦争の時には米軍政統治地域に、その後は大韓民国に編入された。いわゆる‘修復地域’と呼ばれる所で、38度線から18kmほど北側に位置した地政学的位置のために、とりわけ波瀾万丈な近現代史を体験した。K村住民の漢方病院主人キム・チャンスン(仮名)氏の人生もそうだ。1901年に生まれ1969年に亡くなった彼は。生前に植民地・解放・韓国戦争を経験した。その過程で大韓帝国・日本帝国・人民共和国・米軍政・大韓民国など何と5つの‘国家’に属した。

貧農の子息であった彼は、日帝強制占領期間の時に漢方病院を開き成金になり、土地も8反歩ほど買った。しかしソ連軍占領時期の農地改革のためにすべての土地を没収された。だから彼は北韓体制に反感を持った人物になった。その時、北韓住民社会でキム氏とともに韓国側に友好的な地主、小市民、有産者などは‘白組’と呼ばれ、北韓体制に同調する人々は‘赤組’と呼ばれた。両勢力は水と油のように混ざれず、一家族の中でも互いに分かれ各々北と南に散ることもあった。

韓国戦争が勃発するとキム氏は国軍の北進を待った。しかしK村に入ってきた国軍は白組と赤組をきちんと分けなかった。従順でなければ‘アカ’だとして殺し、自首しに来た人々を理由もなしに全て殺すこともした。キム氏もやはり北から避難して来た親戚と握手を交わしスパイと見なされ処刑されるところだった。国軍は1・4後退をしながら北側の村に全て火を付けた。キム氏の家と漢方病院も灰になった。K村の人々は家の跡地に掘った洞窟の中で空襲を避け命を守った。

K村は1951年から米軍政統治下に入り、3年後には大韓民国に帰属した。白組は修復により以前の財産を返してもらったが、戦後の混乱の中で土地は安値で売り渡すほかはなかった。その上に修復地域の人々は潜在的親北人として取り扱われた。キム氏の息子はスパイ事件にかかわり、どこにも就職することはできず、親父のために大学進学の道も塞がれた孫は水に落ちて亡くなった。没落してしまったキム氏もこれらすべてのことに対し 「私の意志とは関係のない運命」と言って結局死を迎えた。

韓国戦争60年を迎え、去る13~14日ソウル大奎章閣韓国学研究院が開いたシンポジウムでキム・ヨンミ国民大教授(国史学)はキム・チャンスン氏を通じてみた‘修復地域住民たちの韓国戦争経験’に対する研究を発表した。口述収録した修復地域住民22人の生涯史資料を見本とし修復地域に暮らした平凡な民衆の戦争経験を蘇らせたのだ。キム教授は「戦争を企画した人々の意図でなく、実際に発生した‘効果’が韓国戦争の全体的な内容であり性格」として「戦争の中の人々の経験が世界で研究として拡張されなければならない」と明らかにした。

今回のシンポジウムの全体的な趣旨は今まで焦点を合わせた韓国戦争の起源、社会構造的変化、国際関係などではなく、その時代を生きた人々に対する研究ということにある。冷戦時代の責任論研究を離れ、戦争の経験を客観的に確かめてみようということだ。修復地域住民たちと共に、在日同胞・被虐殺者・爆撃犠牲者の戦争経験と捕虜問題などの主題が発表された。

チェ・ウォンヒョン記者 circle@hani.co.kr

原文: 訳J.S