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独裁政権の‘侍女’民主化以後‘権力’の席を占める

原文入力:2010-05-09午後10:58:17(4610字)
ハン・ホング教授が書く司法府-悔恨と汚辱の歴史50.民主化と検察共和国の誕生
警察・安全企画部 後始末する
盧泰愚時期の公安政局 前面に
DJ・盧武鉉 検察掌握・改革企図
‘人的清算と反省’なく失敗

←性売買問題解決のための全国連帯、韓国女性団体連合など女性団体代表者57人が先月27日午前、ソウル、瑞草洞の大検察庁前で‘最近火が付いた検察のスポンサー犯罪と関連した性売買疑惑検事に対する厳正捜査・処罰’を要求する告発状の提出に先立ち記者会見を行っている。 写真 イ・ジョンチャン先任記者

検察が嘲弄される国

検察のせいで国が騒々しい。国の騒々しいことを検察が出て解決するのではなく、検察が問題を起こしている。公益の代表者として正義を実現しなければならない検察が、政治的事件の無理な起訴で物議をかもし、今や犯罪水準のスキャンダルで後ろ指を差されている。軍事独裁時期‘権力の侍女’であった検察は、民主化以後は侍女でなく権力それ自体として登場した。民主化で安全企画部と軍が政治の前面から退き、大統領府の権力は任期という罠にかかり力が弱まった反面、検察は三星を除いては誰からも統制を受けない強大な権力に浮上した。最近のスポンサー醜聞は、絶対権力は必ず腐敗するという昔話が正しいことを示している。かつて安全企画部が全盛だった時期には、検察が見た目が悪く歪んでいても、これほどまで腐ることはなかった。外部の牽制と監視が一定作用していたためだ。民主化で大きな権限を享受することになった後、検察は自浄機能を確立できず、民主政権は検察改革にも文民統制にも全て失敗した。その結果が今日の検察が見せる醜い姿だ。

歴代政権の検察馴らし

李承晩の最大の権力基盤は親日警察だった。悪質親日警察の代名詞であるノ・トクスルは反民特委に検挙されたが、首都警察庁長官キム・テソンが官用車でノ・トクスルを逃避させ、警護警官まで付けた事実が明らかになった。検察総長キム・イクチンはキム・テソンを犯人隠匿疑惑で捜査せよとの厳正な指示を与え、警察は李承晩に駄々をこね検察総長キム・イクチンをソウル高検長に左遷させてしまった。李承晩政権は検察総長から高等検察庁長へ降格される屈辱に耐えて持ちこたえたキム・イクチンを1952年、彼の遠い親戚である義烈団員キム・シヒョンが主導した李承晩狙撃計画に絡め拘束させてしまった。これより先立って、1948年10月25日順天支庁パク・チャンギル検事が麗水順天事件の渦中で警察により銃殺されるというとんでもない事件が発生した。警察はパク検事が反乱軍の処刑をまぬがれ、討伐中に民間人を殺害した警察に重刑を求刑したからと彼を銃殺したのだ。

5・16軍事反乱直後、4月革命以後 特別検察部を率いたキム・ヨンシク部長以下 特検検察官18人がわいろ授受疑惑で全員拘束された。これらが大量に拘束された理由はキム・ヨンシク部長が今後の特検方向を尋ねる軍人らに法の通りにするという方針を明らかにしたためだ。軍人らは自分たちの特検を新しく作り好き勝手に事件を処理した。提川支庁長だったファン・チョンス検事は5・16後、特務隊員が訪ねてきた時に座れと言わなかったことに恨みを抱いた特務隊員によってわいろ疑惑で拘束されることもした。5・16後の特検と1974年緊急措置1号と4号違反事件を一般検察ではなく非常軍法会議検察部に任せ処理するようにしたことは、制度的に検察権をじゅうりんしたものだった。朴正熙政権は人民革命党事件の処理で検察を権力に完全に服属させたが、長期にわたる検察・警察葛藤では概して検察の手をあげた。朴正熙は現職検事のハン・オクシンを警察高級幹部の治安局長に任命し、31才の検事イ・ゴンゲをソウル市警局長に任命し警察の自尊心を傷付けた。

全斗煥政権時期には検察が10・26事件で立場が弱くなった安全企画部と力を競ってみようとしたが、大変な困辱を味わい、時には警察に押されもした。上で述べた大法院長秘書室長わいろ事件当時、検事2人が拘束されソウル地検長と南部支庁長が法服を脱ぎ、安保捜査調停権と関連してク・サンジン検事も辞表を書いた。検察の恥辱は富川署性拷問事件の処理で絶頂に達した。軍事政権は政権維持のために数万人の戦闘警察と途方もない数の情報要員を持った警察力に大きく依存していた。パク・ジョンチョル拷問致死事件当時には、警察が検察の力を圧倒し、検察を見くびることさえした。このため検察内部には "危機感と共に一刻も早く何とか地位を取り戻さなければならないという切迫感が充満していた" と言う。当時、ソウル地検公安部長チェ・ホァンは安全企画部や大統領府の圧力にもかかわらず、パク・ジョンチョル死体解剖検査を実施し事件の真相が明らかになることに大きく寄与した。しかし検察指揮部と担当検査アン・サンスは警察と安全企画部が主導した隠蔽操作を積極的に受け入れた。

検察共和国が産んだ醜聞

盧泰愚政権時期は検察出身らの全盛期だった。第5共和国時期から政治検事と政治軍人らが互いに交わることを‘六法党’と皮肉ったが、6月抗争で軍出身らが享受した権力を第6共和国の皇太子パク・チョルオン、安全企画部長ソ・ドングォン、大統領府秘書室長チョン・ヘチャンなど慶北高校を出た検察出身らが占めた。検察史上最悪の事件と言われる1991年の遺書代筆事件はまさにこういう構図下で発生した。かつては政権核心や安全企画部が企画した事件を検察が法律的に後始末したとすれば、今や検察が前面に出て政権の危機を突破していた。遺書代筆事件は異例的にソウル地検公安部ではなく強力部で捜査したが、部長カン・シンウクもやはり慶北高校出身だった。ソ・ドングォンに先立ち検察出身のペ・ミョンインも安全企画部長を務めたので、安全企画部に押さえられてきた検察としては十分に自尊心回復をしたということだ。

金泳三政権時期、検察は12・12事件と5・18事件を‘成功したクーデターは処罰できない’とし‘公訴権なし’決定を下した。これは光州虐殺の責任者らと手を握り大統領になった金泳三の立場を反映したものだが、政権の存立が危険なほど強い反発を呼び起こした。検察は前回捜査は‘流れ’だとし再捜査に着手し、全斗煥・盧泰愚一党を起訴した。“私たちは犬だ。追い詰められれば噛む”という検察のアイデンティティ告白はまさにこの時に出てきたものだ。

初めての政権交替でスタートした金大中政権は湖南出身を重用し、検察を掌握しようとしたが失敗に終わった。1999年には最高検察庁公安部長チン・ヒョングが造幣公社ストライキを検察が誘導したものと記者らに自慢し拘束され、また検察総長を経て法務長官になったキム・テジョンの夫人が財閥会長夫人から‘服ロビー’を受けたという主張のために国家がばっさりひっくり返った。5共和国以来、検察では公安検事たちが聖骨に通じたが、民主化以後は大型国家保安法事件がほとんど消え、公安検事たちは労働運動に対する統制と取り締まりを新たな仕事とした。造幣公社ストライキ誘導発言は、この過程でチン・ヒョングが記者らと爆弾酒を飲みながら自身の業績を自慢して出てきたものだ。この2つの事件で2つの特検が同時にスタートしたが、残念ながら金大中政権はこの2事件を検察改革の機会とすることができなかった。

検察改革の失敗が自招したノ・ムヒョンの死

検察に拘束されたことがあった盧武鉉大統領は検察改革の重要性をよく知っていた。彼は法務部の文民化を試み、検事出身でないカン・グムシルとチョン・ジョンベを法務長官に任命する実験をした。40代女性 カン・グムシルの任命は検察の集団的反発を持たらし大統領と検事との対話という初めての事態が起きた。チョン・ジョンベ長官時期にもカン・ジョング教授の拘束問題を巡り長官の捜査指揮権発動で検察総長が辞任するなど、検察と政権の葛藤は盧武鉉政権時期を通じて続いた。

検察改革のためには政治検察と腐敗検察に対する人的清算、汚辱の歴史を正す過去清算、そして強大な検察権の誤・乱用を防止するための制度改革を必ず成功させなければならなかった。更に一つ付け加えるならば、大統領も検察を政治的道具として悪用せず、検察の独立を保障しなければならなかった。盧武鉉大統領は大統領府民政首席を通じた検察に対する介入を行わないという意志で検察出身ではないムン・ジェイン、チョン・ヘチョル、イ・ホチョルなどを民政首席に任命し、実際に彼の支持者らが‘希望の豚’貯金箱で選挙法違反で検察の捜査を受けた時に電話一通しなかった。これはそれで立派な態度だったが、人的清算、過去清算、制度改革が伴わなくては意味のないことだった。人的清算は全くなされず、国家情報院、国防部、警察など他の権力機関は自主的な過去清算をしたが検察は微動だにしなかった。盧武鉉政権は検察の組織暴力文化、群れ文化の法的源泉に転落した‘検事同一体原則’を、検察庁法から削除し、警察の捜査権独立のための基盤を作るなど制度改革分野でとても小さな成果を上げた。しかし次官級の検事長席を大きく膨らませてあげただけで、検察の起訴独占権に対する核心的な牽制装置としての‘高位公職者不正捜査処(公開捜査処理)’設置は失敗に終わった。盧武鉉大統領は人的清算、過去清算、制度改革など3つの課題をきちんと解決できないまま検察独立だけを尊重するとして、結局、悪の検察力を拡大し検察によって崖っぷちから落ちた訳だ。

検察が正しく立ってこそ国が正しく立つ

李明博政権はロウソクのあかり危機を検察、警察の公安権力を通じて突破した。PD手帳に対する無理な捜査に反対しイム・スビン部長検事は辞表を書かなければならなかった。法服を脱ぐ席と言われる水源地検長時期にウォン・ジョンファ スパイ事件を処理しソウル中央地検長に栄転したチョン・ソングァンはPD手帳捜査の功績により検察総長となり、スポンサー問題で落馬した。PD手帳が明らかにしたスポンサー検察の醜悪な事例として初めて登場した者は最高検察庁監察部長ハン・スンチョルだった。検察の自浄能力は期待できないという現実をこれほど如実に示すことはできない。

韓国社会が民主化され市民の暮らしも少しは良くなったとすれば、本当に良くなったのは財閥と検察だった。かつては独裁者が情報機関や権力機関を相互牽制させ、財閥の力もかなり統制した。しかし徹底しない民主化は、民主共和国の代わりに三星共和国、検察共和国を呼び起こした。財閥の不法行為を取り締まらなければならない検察は、財閥によって管理される‘餅代検察’になって久しい。統制を受けない2つの権力、三星と検察の結託は真に大韓民国の未来を威嚇している。今や検察改革は韓国民主主義の存亡危急の課題とならざるを得ない。朝鮮時代に捕盗庁を左捕庁と右捕庁に分けた理由は何だろうか?

ハン・ホング聖公会大教授・韓国史

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/419997.html 訳J.S