原文入力:2010-05-03午前08:58:23(2525字)
1980年5月21日光州道庁前の錦南路一帯で戦車を前面に出した空輸部隊鎮圧軍と市民デモ隊らが対峙している。その日夜、軍隊をはね除け道庁を接収した市民たちはついに抗争指導部を設ける。チョン・ヒョンエ,キム・サンユン夫妻の緑豆書店は写真右側の建物後方区域に位置していた。
[5・18 30周年-5月を守ってきた女性たち]①チョン・ヒョンエ
1980年5・18光州民衆抗争30周年を迎え、‘五月を守ってきた女性たち’の話を始める。その時その瞬間その場にいた女性たちから、その日以後今日まで‘5月の傷’を抱えてきた女性たち、‘5月精神’を受け継ごうと努める若い後えいたちまで、平凡な女性たちの特別な体験と記憶を通じて波乱と激情の民主化運動史、その半分を満たしてきた女性史を発掘しようと思う。
‘チョン・ヒョンエ、緑豆書店 女将、光州抗争指導部女性代表.’
今、彼女の名前をこのように記憶している人はそんなに多くない。かえって全国教職員労働組合光州支部支部長、光州広域市市会議員などとして馴染んでいる。しかし1980年5月の記憶の中で、彼女の人生の履歴として何より先に書かれなければならない名前は光州抗争指導部女性代表だ。
5月抗争当時、家族が共に参加した事例を挙げるならばチョン・ヒョンエの家族が代表的だ。夫(キム・サンユン)は5月17日夜、予備検束収監者として、妻である彼女は抗争指導者として、義理の弟(キム・サンガ・予備役)は市民軍として、夫の姉(キム・ヒョンジュ・洋書組合)と妹(チョン・ヒョンスン・会社員)は参加者として、2家族5人が全員連行され苦難に遭遇した。
その年5月18日、血で染まった光州市の中心、錦南路内側の道庁から5分ほどの所に社会科学専門書店の‘緑豆書店’があった。緑豆書店はチョン・ヒョンエの一間限りの新婚家庭であり反独裁民主化運動の基地でもあった。数多くの人々がこちらに集まり暗鬱な時代に対する鬱憤を晴らし慰められた。当時、森溪中学校教師であったチョン・ヒョンエは昼は学校で仕事をし、夜は民主化運動家らの面倒見をし疲れる日常を送っていた。だがそれは「時代の痛みを共有する宝石のような喜びの時間」でもあった。
5月17日夜、全斗煥軍部の戒厳宣言で光州地域の民主人士と大学生指導者たちが続々と予備検束されるや、緑豆書店は互いの安全と危機と情報をやりとりする空間であり活動拠点に自然に変わった。引き続き5月18日、空輸部隊の無慈悲な鎮圧作戦が始まり、書店のすぐ目の前でも強行された。数多くの無実の市民たちが無差別こん棒の洗礼で血まみれになり倒れ、連行されていった。20日、言論はついにこれらを暴徒として罵倒し始め、市民たちは緑豆書店の後方でこっそりと火炎瓶を作り始めた。しかし火力も乏しい火炎瓶だけでタンクを前面に出した鎮圧軍隊を阻むには力不足だった。21日昼12時、野蛮な発砲が敢行されるや抗争を導いた人々も書店の門を閉め避身することにした。チョン・ヒョンエも両親の強い勧めと指導部の決定により身を避けることに決めたが、彼女は "歴史教育者" として、結局そこを離れることはできなかった。全財産20万ウォンをはたき情報紙(後日‘闘士会報’)製作基金として出し書店をずっと開いておいた。「ここまでなくなったら連結網が途切れてしまう….」活動家たちを先に逃避させ妹と共に抜け出した彼女は数時間ぶりに「一人でも守らなければならない」という考えに再び戻った。
←チョン・ヒョンエ氏
そしてその日の夜、光州市民たちが命をかけた闘争で軍人らの無差別暴力を阻止し、避けて身を守った活動家たちが再び集まった。以後、道庁で最後まで抵抗し亡くなったユン・サンウォン(当時 野火夜学運営者)もその隊列にいた。5月22日、市民軍により道庁が接収され収拾対策委が編成されると、書店で状況を処理するにはあまりに狭く25日から近所のYWCAに活動拠点を移した。彼女は道庁で構成された収拾対策委に女性代表として参加した。遺体収拾、ビラ配布、市民行事等そのすべてのことを共に行いながら最後まで道庁死守を主張した。しかし5月27日未明、最後の鎮圧作戦が敢行され彼女も逮捕された。まさに緑豆書店で。
チョン・ヒョンエが連行された松汀里光山警察署留置場には妹のヒョンスンをはじめ50人余りの女性たちが捕えられていた。単に遺体に手を合わせたという理由だけで、学生を匿ったという理由だけで、尻に真っ青なアザができるまで打たれた女性たちだった。街頭放送をした女性市民軍、チャ・ミョンスク,チョン・オクチュは‘スパイ’にされていた。
"留置場へ行き来し調査を受けている夫を見ました。姉弟2人に妻、妻の妹まで闘争に出たために夫は一層過酷な拷問に苦しめられました。逆さに吊り下げられた夫の姿も見たことがありました…." 彼ら夫妻は今でも5月頃になると苛酷な苦痛に苦しめられる。拷問後遺症だ。
その年の9月5日、夫が内乱陰謀者として操作され、彼女は‘拘束者家族’に分類され一旦解放された。戒厳司では緑豆書店の看板を強制的に変えさせた。だが、新しい名前‘ハンオル書店’も監視と財政難とで一年後に閉店する時までいわゆる‘金大中内乱陰謀事件’と抗争関連拘束者家族の釈放運動本部の役割を果たした。
チョン・ヒョンエは87年6月の抗争以後、正しい教育運動で解職と復職の屈曲を経て、今は地域政治家として社会運動家として相変らず‘現場’を守っている。“5月光州の抗争精神は教育運動、女性運動、女性労働者運動、女性農民運動、地域運動など多様な領域で生きている”と信じているためだ。
整理/光州全南女性団体連合
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/418823.html 訳J.S