原文入力:2010-04-02午後06:40:09(5623字)
[韓民族の起源, 満州] 時代と共にした朝鮮の青年(2)
金九-金元鳳, 拮抗した主導権競争
味の素と制服が象徴する日帝残滓
←中国太行山に駐留した朝鮮義勇軍らが‘韓国人と中国人が連合し日本を打倒しよう’という内容が込められたスローガンを塀に書いている。ハンギョレ資料写真
前の時間に続き1930年代満州に再び戻ってみよう。1930年代 抗日武装闘争の代表的な民族主義運動団体が朝鮮革命軍と韓国独立軍だ。よく人々は‘朝鮮’,‘革命’等の単語が入れば社会主義系列と分類しやすいが、(名称に現れるとおり)当時 満州の民族主義運動はかなり進歩的だった。韓国独立軍は北満州地域を中心に活動し、日本軍と計5回戦ったと近現代教科書は描写している。
反面、南満洲地域で活動した朝鮮革命軍は2回の戦闘を行い、相対的に活動が少なかった見ることができる。しかし、これは誤った歴史解釈だ。朝鮮革命軍が組織員の規律や戦闘力面で優秀だった。活動期間も韓国独立軍は1933年に終わるが、朝鮮革命軍は36年まで活動を継続した。したがって1930年代の満州の民族主義武装闘争は朝鮮革命軍を中心に説明しなければならない。
朝鮮の社会主義者たちはなぜ中国共産党に入党したか
社会主義者たちは1930年代に中国共産党遊撃隊所属として活動した。民族主義者たちも中国人たちと連合し戦ったが、中国人たちが指揮する部隊に所属することはなかった。ところで朝鮮の社会主義者たちは徹底的に中国共産党に入党しゲリラ隊員として働いた。闘争方式が違った。正しい,誤りを離れ、どちらがその時代により効率的な運動方式であったのか? 中国共産党に入党し徹底して連合する方式がより効率的だっただろう。1934年の満州地域人口統計を見れば(日本帝国主義集計)中国人が3千4百万人であったが、朝鮮人はかろうじて70万人だった。比較にならない。満州は韓半島より少なくとも6倍は広い土地だが、70万の人口というものは人口分布上は点の一つに過ぎない。それで民族主義者たちや社会主義者たちが皆中国人と連合したことは極めて正常な運動方式だったと見る。
それでも結果的に中国革命のために運動した朝鮮人社会主義者たちをどのように評価しなければならないかとの問題が残る。彼らは急がば回れと考えた。満州の日本帝国主義と朝鮮の日本帝国主義とは全く同じで、満州の日本人をはね除けることが韓半島の日本人をはね除けることだと考えたということだ。それで彼らが朝鮮の独立を放棄したということではなく、中国共産党と活動をすることが窮極的に朝鮮の独立を助けることだと見た。
満州事変の勃発と中国の反朝鮮人感情を溶かした尹奉吉義挙
←尹奉吉義士が挙事の3日前に韓国人愛国団宣誓式で撮った写真. ハンギョレ資料写真
1931年の満州事変は、満州地域と朝鮮はもちろん中国内部にも微妙な波紋を起こした。満州事変の後、独立活動家たちは民族主義者も社会主義者も関係なしに食べて寝て起きれば銃を持ち戦うことが仕事だった。日常的な武装闘争が運動の主要な方法と手段だった。しかし満州事変に対する中国人たちの考えは違った。「朝鮮人が満州にきたので日本が私たちを侵略するのではないか」という反朝鮮人感情が広がった。実際に日本は満州に軍事的影響力を拡大する過程で‘植民保護’を重要な名分として掲げた。すなわち朝鮮人保護のために満州を攻撃するということだ。それで満州事変後、中国人馬賊たちが朝鮮人を襲撃する事件が頻繁に発生する。そのような事件は朝鮮の新聞に報道されず朝鮮人たちも逆に中国人に対する感情が良くなかった。
このように中国人と朝鮮人の間の感情が悪化すれば誰が利益を得るか? 日本帝国主義だ。したがって誰かがこの問題を解決して乗り越えなければならなかった。尹奉吉義士の義挙はこういう側面から見て画期的な戦いだったと見られる。尹奉吉義挙は中国人の反韓感情を溶かすのに決定的な役割をした。
‘治安安定 自負’していた日帝 後頭を殴られた普天堡戦闘
←1937年6月の普天堡戦闘を特筆大書した東亜日報号外. ハンギョレ資料写真
30年代に展開した社会主義抗日運動のもう一つの重要なキーワードは金日成だ。金日成という存在は満州地域民族運動史を理解するばかりでなく北韓を理解する上でも必要だ。北韓は1929年‘打倒 帝国主義’精神から出てきた抗日闘争と満州事変以後15年間の武装闘争の過程で主体思想が形成されたと説明している。
<東亜日報>は1937年6月、号外で普天堡戦闘を大々的に報道した。これは金日成という人物が国内大衆に知らされた決定的な事件だった。金日成は満州のさまざまなパルチザン指導者の中ぼ一人だったが、格別に浮上されたのは普天堡戦闘と関係がなくはない。1930年代の情勢の中で普天堡戦闘はどんな意味があったのか? 日本は1936年と37年になると‘朝鮮の治安が安定した’と自ら結論を下した。ところが、そこで後頭を殴った事件が普天堡戦闘であった。日本はこの事件の後、大々的な検挙作戦を行いわが国歴史上単一組織事件として最も多い死刑者と検挙者を記録したいわゆる‘在満韓国人祖国光復会’事件と恵山事件の打撃を受ける。それほど普天堡戦闘は日本帝国主義を寒からしめた事件だった。
当初 優勢だった金元鳳, 結局 金九の臨時政府に集中
1930年代、中国の本土である北京と上海などでは民族主義と社会主義運動の統合運動が活発になされた。統合運動の核心指導者は金九と金元鳳だ。2人は宿命のライバルだった。統合運動過程で1932年~39年までは金元鳳の影響力が優位にあった。金九はとても萎縮していたし、これは臨時政府の萎縮につながった。しかし1937年に金九の勢力が順次挽回し始める。契機は金元鳳が組織した朝鮮義勇隊の北上だった。金元鳳が作った民族革命党は武装部隊として38年朝鮮義勇隊を組織する。ところで、朝鮮義勇隊の若い隊員らの間に「戦線から離れたところで気楽に訓練だけ受け情報収集だけするのではなく、日本帝国主義軍隊がいる所へ行き戦いながら抗日運動をしよう」という主張が提起される。それで1939年と40年の間に一部隊員が太行山に登り、朝鮮義勇軍に名前を変え抗日武装闘争を継続する。朝鮮義勇隊の北上は金元鳳の影響力が縮小される契機だった。
←30年代 中国本土の統合運動の2人の指導者. 金九(左側)と金元鳳(右側) ハンギョレ資料写真
金九と金元鳳は結果的に互いに統合できなかった。しかし影響力が縮小された金元鳳が1941年に臨時政府に合流する。金元鳳の選択は自分が指揮する部隊が北上したことが大きかったが、当時の国際情勢と関係がなくはなかった。1939年に起きた第2次世界大戦で反ファシズム勢力たちで構成された連合軍勢力が急速に拡大する。ナチがソ連を攻撃するやソ連も連合軍に加担する。この時、米国と英国は英国に亡命したヨーロッパの各国の臨時政府を承認する政策を展開する。それで連合軍が勝利すれば臨時政府を承認してくれる可能性が大きくなるということだ。
金元鳳はこういう国際情勢の変化により臨時政府が国際的な承認を得ることになれば、自身が徹底して孤立することを心配した。金元鳳の加勢で臨時政府は中国内で実質的な独立運動指導機関としての役割をすることになる。情勢と関連して活動家たちの選択と行動に注目しなければならない理由がここにある。日帝強制支配期の独立活動家たちが抗日のために、ただ戦っていたわけではない。彼らは民族という巨大談論によって動いたのではなく、自らの政治論理があった。金九と金元鳳の関係が代表的だ。
民族主義運動も本格的な噴火
1928年朝鮮の社会主義運動は大きな転換点に立った。朝鮮共産党の解散がそれだ。1930年代、朝鮮の社会主義運動は朝鮮共産党再建運動だと見れば良い。しかし再建運動の中心勢力とスローガンとは明確に違った。1920年代の朝鮮共産党は知識人中心の政党という評価を受けていた。それで‘労働者と農民中心の朝鮮共産党を作ろう’という再建運動が起きた。しかし日本帝国主義弾圧を一貫して受ける過程で朝鮮労働党を再建できなかった。
この時期に国内民族主義運動も本格的な分化が始まる。1931年5月、新幹会が解消されたことが契機となった。新幹会の解消により非妥協的民族主義者たちは事実上運動の組織的基盤を失った。これらは以後、私たちの文化と国語保存などの朝鮮学運動に路線を切り替える。以前のように闘争的な姿はこれ以上見られなかった。妥協的民族主義者の多数は親日に向かう。これが30年代の国内民族運動の流れだ。
金九-金枓奉-呂運亨-金日成の建国連合活動 失敗
1940年代の民族運動過程で重要な転換点は1941年の日本軍による真珠湾奇襲だ。多くの民族活動家たちはこの戦争で日本が負けると予想した。それで建国運動が活発に広がる。光復を控えて起きた代表的な独立運動団体は大きく4個だ。金九の大韓民国臨時政府、金枓奉の華北朝鮮独立同盟,呂運亨の建国同盟,金日成,キム・チェギュ,チェ・ホングンが導いた朝鮮工作団委員会がそれだ。1940年代の朝鮮独立運動の最も重要な特徴はまさに建国に備えた運動という点だ。そして建国のために活発な連合活動が繰り広げられる。臨時政府の金九が自身の最も信じられる組織員を華北朝鮮独立同盟に送り連結を試み、建国同盟は金日成に組織員を派遣する形だ。
日本が1945年8月15日に降伏する。それでは我々は独立することになったのか? 日本の敗戦は同時に38度線を境界として南には米軍が、北にはソ連軍が進駐し日本軍の降伏を受け付ける過程だった。我々が光復の喜びを感じるその瞬間が、実は分断の瞬間だったということだ。1940年代に活発だった建国連合活動は結局その実を結ぶことができず 分断の痛みにつながった。
抗日の時期であり近代体験の時期
これまで1910年代から1940年代までの朝鮮の民族運動史,抗日運動史を調べてきた。ところで植民地時期は、抗日をして日本と戦う時期であると同時に、私たちが近代を生きていく体験の時期でもあった。このために私たちが解放後に米国式資本主義を簡単に受け入れたのかも知れない。私たちが戦った日本がどんな国であったかを初めに説明したように‘私たちが過ごした植民地時期がどんな社会だったのか’を説明することは、民族運動が持つ歴史的意味をさらに正確に見えるようにする。
←韓国人の味覚を飼い慣らした化学調味料の始まり味の素の新聞広告. 資料写真
日本が発明した化学調味料が‘味の素’だ。日本強制占領期間に味の素を料理に使うのは‘非常に啓蒙された人, 開放的で, 近代的で家族のためによくする人々’だった。味の素広告によれば‘李王家名品’と書かれている。ここで李王家は朝鮮王朝を意味し李王家が使う名品という意味だ。日帝強制支配期に味の素はそのような表象だった。ところで大韓民国の調味料の歴史で、化学調味料の有害性論議が本格的に起きたのは1980年代だ。それまでは化学調味料はたくさん入れるほど家族を幸福にする人だったということだ。
解放後、我が国の代表的な化学調味料は‘味元’だ。その競争者は‘味風’だ。しかし味風は味元に絶対に勝てなかったし、勝てる訳もなかった。その理由は何だったろうか? 1945年8月に家庭主婦だった人の8割は、1955年8月にも家庭主婦だっただろう。彼らに味元という漢字を投げかければ何と読んだだろうか? アジノモトと読んだだろう。日本帝国主義の潜在された記憶を引きずって広告の効果,認知度の効果を極大化させたのが味元だという話だ。味風が絶対に勝つことはできない歴史的限界だった。それほど‘味の植民地’は根が深かった。
もう一つ、衣服の例をあげよう。日本強制占領期間に我が国の女性たちが洋装への拒否反応を減らすことに決定的な役割をしたのが制服だった。制服は男女を問わず制服自由化をする前の1983年までは普遍的な身なりだった。そして私たちが今でも名節になればよく見られる韓服に靴を履いたお父さんたちの姿。これは日帝強制支配期に形成された韓国男性の近代的な身なりの典型だ。
独立運動は一方で民主主義守護運動
1920年代と30年代に形成された文化と価値体系は、今日私たちが極めて普遍的に受け入れているそれと根元で結びつく。それは近代的な生活,文明的な暮らしの価値体系だ。そしてその時代に展開された独立運動の価値体系もまた今の私たちの社会の時代精神である民主主義の価値体系と根が同じだ。日本帝国主義が民主国家ではなかったために、日本帝国主義と戦った独立運動は一方で民主主義守護のための運動だった。民主主義という価値は私たちが日本帝国主義支配下にあったので知らなかったが、解放以後60年代4・19をたどりながら骨身にしみるほどに認識することとなった。
日帝強制支配期に私たち民族は西欧的文明秩序の中で人生を学んだ。反面、政治的に生きることを通じて民主主義,日常の道徳的規律としての民主主義な人生はきちんと学ぶことができなかった。これが‘植民残滓’だ。<終わり>
シン・ジュベク延世大国学研究員HK研究教授,整理=パク・ジョンチャン記者pjc@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/413990.html 訳J.S