本文に移動

ハン・ホング教授が書く司法府-悔恨と汚辱の歴史42 暗黒時代の光る判決たち(中)

原文入力:2010-03-14午後06:51:41(4544字)
‘五松会(オソンフェ)’ 1審裁判所, 保安法被告人に破格的 宣告猶予
起訴された9人中6人 宣告猶予で釈放
イ・ポファン裁判長 その後 刑事事件から排除
全斗煥叱責で控訴審 再び拘束
26年後 再審で無罪…結局 裁判所 謝罪


←1983年5月、全州地裁でいわゆる‘五松会事件’で拘束起訴された9人の被告人中6人が宣告猶予判決を受けた。国家保安法事件でこのように多くの人が1審で釈放されるということは稀有なことだった。25年後の2008年11月25日、光州高裁は五松会事件再審で関連者全員に無罪を宣告した。写真は無罪宣告を受け万歳を叫ぶ‘五松会事件’関連者たち. 光州/連合ニュース

法台の上で行った謝罪

1983年5月全州地裁(裁判長 部長判事 イ・ポファン,同席キム・ヌンファン,イム・ジョンユン)のある法廷では思いがけない判決が下された。いわゆる‘五松会事件’で拘束起訴された9人の被告人中6人が宣告猶予判決を受けたのだ。国家保安法事件でこのように多くの人が1審で釈放されるということは本当に稀有なことだった。当時、五松会関連者らの救命に努めたキム・ジョンナム(前大統領府教育文化首席)は「軍事政権時代にこのように正しく勇気ある判決を下した裁判所に多くの人々が内心驚き、また敬意を表した」と回顧した。

2008年11月25日、光州高裁刑事1部(裁判長 イ・ハンジュ部長判事)は五松会事件再審で関連者全員に無罪を宣告した。イ・ハンジュ部長判事は判決を終え 「裁判所に行けば真実が明らかになるだろうという期待感が崩れた時、皆さんが感じた挫折感と司法府に対する怨望,無念な獄中生活による心的苦痛などに対し強く苦悶した」とし 「その間の苦痛に対し裁判所に代わり頭を下げ謝罪する」と話した。彼はまた被告人の前で 「今回の事件を契機に、裁判所は左にも右にも流れることなく普遍的正義を追求する」とし「法台の上ではその誰にもその何にも恐れるなという所信で判事職に臨む」と明らかにすることもした。無罪判決に被告人と家族たちが万歳を叫び法廷の警衛たちがこれを制止すると裁判長は 「制止するな」と言ったという。

宣告猶予は有罪なので無罪とは天と地ほどに違う。しかもイ・グァンウン(4年),パク・ジョンソク(3年),チョン・ソンウォン(1年)等には、1審でも軽くない刑が宣告された。被告人たちはくやしかった。2審に行けば懲役を受けた人は刑が削られ、宣告猶予を受けた人はひょっとして無罪が出てくるのではないかという期待で被告人たちは控訴した。2ヶ月後、光州高裁で控訴審判決が下され、キム・ジョンナムの表現によれば法廷は‘阿鼻叫喚’となった。‘主犯’イ・グァンウンは7年,パク・ジョンソク5年,チョン・ソンウォン3年に刑量が高まっただけでなく、宣告猶予を受けた6人が全て法廷拘束されたのだ。家族たちは 「地を打ち号泣し、ムン・ギュヒョン神父は椅子の後で泣き叫んだ」と言う。1審より2審で刑量が低くなるのが慣例なのに、いったい何があったのだろうか?

アカを無罪にすることは許されない
当時、大統領府法律秘書官であったパク・チョルオンによれば、1審判決が出るや 「安全企画部と検察は勿論、裁判所も騒然となった」と言う。大法院長(最高裁長官)ユ・テフンは「全州地裁所長と担当イ・ポファン部長判事を直ちにソウルへ呼び出し」し 「イ部長判事は法服を脱ぐ危機に陥った」ということだ。イ・ポファンはパク・チョルオンとソウル大法学部同期だったが、パク・チョルオンは「所信判決をしたからと中途で依願免職させることはできない」と考え手を回した。彼は 「全州地方裁判所所長とイ・ポファン部長判事がソウルに到着する前に、あらかじめユ・テフン大法院長を訪ねて行き」「大統領の怒気もだいぶ弱くなったのでイ部長問題をここらで静かに終えた方が良いとし、大法院長の心配を鎮めた」と言う。おかげでイ・ポファンに対する懲戒ムードはうやむやになってしまったということだ。

ところでパク・チョルオンの表現を借りれば "仕事が少しぎこちなくなった" のは、大統領府で7月5日大法院長と大法院判事たちを晩餐に招請した時であった。ここで全斗煥が「社会不安,政治不安要素には果敢に対処するとして、‘五松会事件’を例にあげ‘アカを無罪にすることは許されない’と言った」ということだ。パク・チョルオンもユ・テフンも皆しょげて眺めていたが、幸いイ・ポファンは特別な不利益を被らずに過ごすことができた。五松会事件の控訴審はこの晩餐の約3週後の7月28日に開かれた。

反国家団体作り‘本当に簡単~’

五松会事件とは、その時期の公安事件が大部分そうであるように本当にあきれる事件だ。まず名称からがそうだ。全北道警では初め事件核心5人を裡里,南星高出身と知り‘五星会’事件と呼んだが、そのうち1人が違う学校の出身だとわかり名称をあたふたと‘五松会’に変えた。‘五松’というのも、5本の松だとも言い、松の木の下にで教師5人が集まったためとも言う。先生たちが出獄した後、誰かが五松がどこにあるのかと尋ねたところ、誰も知らなかったという。五松は彼らが好んで訪ねた群山第一高の裏山ではなく、事件を操作した者たちの陰険な心の中にあったのだ。赤ん坊の百日祝いに集まった人々が引っかかれば、赤ん坊の名前を取って‘アラム会’となり、錦江に遊びに行った人々が引っかかれば‘錦江会’となった時期だった。反国家団体とは、元々北側を敵国と規定できないために作られた概念だが、今や2人以上ならば‘団体’になるとして、反国家団体作りは‘本当に簡単~’な世の中が来たものだ。

いつからか我が国社会で4・19は消されていった。教師であった事件関連者たちは自分たちだけでも慰霊祭を行おうとして、裏山に登った。彼らは22年前の4・19と2年前の光州を思い起こし“今日までの我々の人生は正しかったか”と互いに尋ねあい、“日常的生活と家族にかまけて社会正義と良心に従って生きられず、ぐずぐずと暮らしている自分たちが恥ずかしい”と酒を飲んだ。国語教師イ・グァンウンは越北詩人オ・ジャンファンの<病んだソウル>の筆写本を持っていたが、彼の弟子がその複写本を借りバスに置いておりた。申告精神の透徹した案内嬢はこれを警察に持って行き、警察は文学素養のかけらもないある教授に鑑定を任せた。その教授という人物は解放後にオ・ジャンファンが人民が主人となり新しい国を作ろうと書いた詩を、定着スパイが書いたことが明らかだと鑑定した。制服を着た生徒たちまで70人余りがぞろぞろと捕えられ、拷問にあい4・19慰霊祭は反国家団体‘五松会’の結成式に化けた。最初は頼むから助けてくれと頼んでいた先生たちは、頼むから殺してくれと願う程にひどい拷問を40余日間受け捜査官らが呼び出し次第‘自白’した。

命をかけて

五松会事件が再審で無罪判決を受けた日、‘主犯’イ・グァンウンはその席にいなかった。事件でむごい精神的苦労をしなければならなかった彼は、すでに1992年に癌で世を去っていた。彼にヤカン一杯の水を飲ませ、彼のからだを電気で煮て作り出した‘犯罪事実’が‘共犯’を監獄に送ったためだ。このとんでもない操作事件で、彼が在職した学校の校長と教頭が罷免され、教育長以下全北教委幹部たちまでぞろぞろと懲戒にあったというので、精神的苦労がさぞかし大きかったのだろうか? 感受性鋭敏な年齢で凄じい対共分室に呼んできて捜査を受け、検察側証人として法廷にまで立たなければならなかった生徒たちに対する申し訳ない思いが癌となり、彼のからだを蝕んだ。この連載のデスクを務めるキム・ウィギョム<ハンギョレ>文化部長も五松会教師たちの愛弟子としてこの事件に対する胸が痛むコラムを書いた。(‘五松会教師を‘告発’する弟子たち’,<ハンギョレ> 2008年12月1日付)

イ・グァンウンが全身で書いた詩の題名は‘命をかけて’だ。その厳しい時代は‘ツルジャム’という別名を持った人の良いイ・グァンウンに命をかけろと言った。“この地で/本当に酒飲みになるなら/命をかけて酒を飲まなければならない/この地で/真の恋をするなら/命をかけて恋をしなければならない/この地で/良い先生になるなら/命をかけて教壇に立たなければならない/何事でも/本物になるなら/命をかけて/命をかけて….”

未だにこういう判事がいますか

イ・ポファンは友人を持っていたおかげで災いから逃れたが、数年間にわたり刑事事件を引き受けることができなかった。五松会事件1審判決は当時としては破格的なことだが、罪なき人々に有罪を宣告した判決でもあった。1審判決は1審でこれくらいにしておけば高裁と最高裁でうまく終えてくれることを期待した当時の言葉では‘苦悶の末の判決’であったかも知れない。

2審裁判長だったイ・ジェファは1年後にソウル高裁へ栄転した後、大田地方裁判所所長,ソウル家庭裁判所長,大邱高裁所長を経て、憲法裁判所裁判官まで務めた。1審の陪席だったキム・ヌンファン判事が最高裁判事になる時、人事聴聞会でイ・ジョンゴル議員は主審判事や裁判長がこの事件で不利益をこうむりはしなかったか尋ねた。キム・ヌンファンは自身や主審判事は特別な不利益をこうむりはしなかったが、イ・ポファン部長判事は「客観的に見れば、不利益をこうむったのではないか」と考えると答えた。これに対しハンナラ党議員らはイ・ポファンが高等法院部長判事まで昇進したことを見れば、不利益をこうむっていないではないかとせきたてた。

第5共和国時期の意味ある判決で人事上の不利益をこうむった裁判官の代表的な例が釜林事件のイ・ホチョル(前大統領府民政首席)に無罪を宣告し、すぐに釜山地方裁判所から晉州支所へ左遷されたソ・ソクク判事だ。当時、大法院長ユ・テフンが釜山地方裁判所所長キム・タルシクを呼び「未だにそんな判事がいるのか」と叱り飛ばしたことは有名だ。

ソ・ソククはまもなく法服を脱ぎ、一時は大邱経実連代表を務めるなど、市民運動に身を置いたが、この頃はろうそくデモに出てくれば日当5万ウォン,乳母車を引っ張って出てくれば10万ウォンという講演をして、金大中大統領国葬および顕忠園安葬取り消しのための訴訟を提起した。最近はMBCのPD手帳とカン・キガプ議員に対する判決で司法府問題が騒々しかった時には「司法府の独立を破壊する犯罪を犯した大法院長と左派判事らの退陣のための国民抵抗を強力に呼び掛け」することもした。ソ・ソククは若き日の自身の良心を後日になって後悔しているとしており、本当に残念なことだ。

ハン・ホング聖公会大教授・韓国史

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/409986.html 訳J.S