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ハン・ホング教授が書く 司法府-悔恨と汚辱の歴史32.キム・グンテ拷問事件と司法府(1)

原文入力:2009-12-21午後09:18:08(4452字)
法廷に立った‘密室拷問’…裁判所は‘証拠保全’棄却
‘自生共産主義者’仕立て上げんと23日間 拷問
キム・グンテ夫人イン・ジェクン暴露で初めて公論化
刑務官は証拠奪取…裁判所は期日延期


←拷問問題が我が国社会で公論化された契機は1985年下半期にキム・グンテ民主化運動青年連合(民青連)議長が自身が受けた拷問を暴露したときからだった。 <ハンギョレ>資料写真

拷問問題の公論化

韓国社会の公然の秘密だった拷問問題が我が国社会で公論化された契機は1985年下半期にキム・グンテ民主化運動青年連合(民青連)議長が自身が受けた拷問を暴露したときからだった。続いて1986年には富川で性拷問事件が発生し、1987年はじめにはパク・ジョンチョル君拷問致死事件が起きた。拷問は軍事政権が権力を維持するとても重要な方便だったが、軍事独裁の没落を促した毒杯でもあった。

1985年10月29日、全斗煥政権は大学街の各種示威と労使紛糾の背後に左傾容共学生たちの地下団体である‘民主化推進委員会’があり、この団体の委員長であるムン・ヨンシクの背後にキム・グンテがいるとし、関連者26人を国家保安法など違反疑惑で拘束し17人を手配したと発表した。政権の言いなりだった言論は‘南派’より恐ろしい‘自生’共産主義者とし、キム・グンテの‘正体’を暴露することに紙面を割いた。この事件は全斗煥政権が犯した代表的な容共操作事件だった。1985年2・12総選挙以後、荒々しい挑戦に直面した全斗煥政権は在野で先導的に闘争してきた民青連と学生運動を一まとめにし根こそぎにしようとした。

1985年9月4日は2年間にわたり民青連議長であり、7回の拘留を受けたキム・グンテが釈放される日だった。雨が降ったこの日の明け方、キム・グンテは西部警察署留置場から釈放される代わりに、南営洞の悪名高い治安本部対共分室へ連行された。そこでキム・グンテは9月25日までの23日間、不法拘禁され、ひどい拷問にあった。対共分室でおきたおぞましい事態はキム・グンテの文集<南営洞>等を通じてよく知られている。キム・グンテもやはり拷問に勝ち抜くことはできなかった。キム・グンテはいっそ殺してくれと訴えたが、拷問者らは 「それは話さないということ」として完全な降伏を要求した。キム・グンテは裸で床を這い、助けてくれと哀願しろという彼らの要求で、三千浦から船に乗り北に行き、スパイとして南派された兄さんたちとしばしば会ったというあきれる小説を事実と認めなければならなかった。

奇跡のような1分

自身が拷問にあったと訴えたのはキム・グンテが最初ではなかった。多くの人々が拷問によって虚偽の自白をせざるを得なかったと法廷で涙で訴えたが、彼らの呼び掛けはほとんど虚空をぐるぐる回って消えた。イ・イルギュ大法院判事のようにとても珍しくそのような訴えに耳を傾けた方もいたが、大部分の判事らはこういう訴えを無視し、言論はただの一行もそれらの話を書いてはくれなかった。キム・グンテを裁いた判事らも彼の訴えを無視することは同じだったし、制度圏言論もやはりキム・グンテの拷問暴露を無視した。

それでも拷問問題が熱い争点に浮上できたのはキム・グンテの暴露には以前と違った点がいくつかあったためだ。幸いにも彼にはイン・ジェクンという同志であり妻がいた。イン・ジェクンは拘留から釈放される筈だった夫が消えるや、あちこち捜査機関を追いかけた。誰も夫の行方を教えなかったが、どこで調査されようがこういう事件にひっかかった人は結局検察に送検されることになっていた。約束なしで幾日か待ったあげく、イン・ジェクンは9月26日検察庁舎9階エレベータ前で奇跡的に夫と会った。キム・グンテは1分にも足りない短い時間に自身が加えられた凄惨な拷問の内容を話し、足と肘の傷と足の甲に真っ黒く残っている電気拷問の跡を見せてくれた。夫の証言を胸に刻んだイン・ジェクンは民青連名義で<ひざまずいて生きるよりは立って死ぬことを願う>という印刷物を作成し、この事実を広く知らしめた。言論は沈黙したが、この事件が契機となり、その間バラバラだった在野と政界が一つにまとまり、‘民主化運動に対する拷問捜査および容共操作共同対策委員会’が結成された。

具体性の力

キム・グンテの暴露は非常に具体的だった。キム・グンテは23日間にわたり彼が加えられた拷問内容と日時、拷問した人の実名と対共分室で通じるニックネーム,顔付き,彼らが拷問を通じて操作しようとした内容,拷問当時の情況などを一つ一つ記憶した。筆者も拷問被害者に多数会ってみたが、こういう詳細な内容を記憶するということは並大抵のことではない。他の人々の告発は切実だったが曖昧だった。少しでも具体的な状況に入れば「それをどのような言葉で表せますか」として泣きわめくのが常だった。キム・グンテは拷問者たちの腕時計を見て時間を記憶し、調書に捺印する時にすばやく司法警察官誰それと書かれた名前を頭の中に刻みこんだ。拷問にあい精神がもうろうとした渦中にも拷問者らが自分たちどうしで嫁入りした娘がちゃんと暮らしているのか、体力測定を受けた息子はうまくできたのかなど、家族の安否を心配する声を聞き鳥肌を立てながらもその情況を記憶しておいた。如何に多くの拷問暴露がどれほど空しく消えたかを誰よりよく知っている彼なればこそ歯ぎしりする怒りと屈辱感をしずめ必死に詳細な事実を記憶しておいた。

またキム・グンテは拷問の証拠を確保しようと努力した。誰もいない密室で強行された拷問にはどんな証拠も目撃者もありえない。拷問被害を訴えた場合、多くの判事らが証拠がないとし無視した事実をキム・グンテはあまりにもよく知っていた。電気拷問にあう時、キム・グンテは苦痛に勝てずにもがき、毛布を敷いてあったが彼のかかとは擦れて野球のボールほどのかさぶたができたという。拘置所に移された後、かさぶたが落ちたがキム・グンテはそれを紙で包み大切に保管した。公判一週間前に初めて弁護士に面会することになったキム・グンテは、イ・ドンミョン弁護士などにそのかさぶたを見せ証拠として提出することを要請したが、刑務官が妨害し意図を遂げられなかった。監房に戻った後、刑務官らはキム・グンテからかさぶたを強制的に奪取して行ってしまった。

安全企画部,‘強力捜査’方針提示

キム・グンテは治安本部対共分室で拷問を受けたので、この事件は安全企画部と関係がない事件と見えるかも知れない。しかし安全企画部は‘安保捜査調停権’を振り回し、主要公安事件を事実上陣頭指揮し、関係機関対策会議を通じて自身の意志を貫徹した。この事件でも初めてキム・グンテなど民青連幹部らを連行する計画を立てるところから詳細な公判対策に至るまで安全企画部の息はすみずみまで及んでいた。

キム・グンテ,イ・ウルホ,キム・ビョンゴンなど民青連幹部たちが連行され5日後の1985年9月9日、安全企画部が作成した<学院騒擾背後組織‘ソウル大民推委’等、捜査進行状況報告>という報告書は、治安本部対共分室で進行している捜査と関連し、安全企画部がどのように調停権を行使したかを明確に示している。この報告書は最初にこの事件捜査で「当部は捜査官常駐,捜査調整および各種資料支援”の役割をしていることを明示し、捜査処理方向として“今回の捜査を契機に民青連組織自体を最小限、国家保安法上の利敵団体以上の水準で法を適用し組織を瓦解”させ“多少の副作用は甘受,強力捜査で事件実体全貌糾明”をすると提示した。また安全企画部は“関連者全員法廷重刑で厳断”し、これらを“社会から長期間隔離遮断”し“捜査終了後の適正な時期に事件全貌広報で学院騒擾背後実状暴露”するという方針を持っていた。このように安全企画部は捜査初期からこの事件の確実な処理方向を立てておいたし、治安本部対共分室に捜査官らが常駐し‘調整’という名目で捜査を事実上指揮し、“多少の副作用を甘受”し“強力捜査”をするように煽った。拷問をするなと言っても、一線で拷問が日常的に行われるところへ‘強力捜査’をしろとか‘厳問’しろということが、何を意味するか理解できない捜査官はいなかった。

安全企画部の圧力で証拠保全申請 棄却

在野の信望を受けていたキム・グンテがむごたらしい拷問をされたという事実が知らされるや、人権弁護士らは忙しく動いた。10月2日弁護団はキム・グンテの傷に対し‘身体鑑定証拠保全’を請求した。安全企画部は拷問の傷が残っている場合、弁護人面会や家族の面会を禁止し拷問の跡が知られないようにする方法を主に使い続けたが、予想外に検察庁廊下でイン・ジェクンがキム・グンテに会ってしまったために頭の痛い状況が広がったのだ。

安全企画部としては拷問問題を覆い隠すために証拠保全申請を棄却させなければならなかった。安全企画部の<学院および労組 背後組織 民青連 捜査進行状況報告>(1985年10月)には、安全企画部が担当裁判所を‘強力調整’し、この申請を棄却させた状況がよく現れている。これによれば安全企画部は“事前物議惹起予防次元で裁判所(キム・オス判事)を強力調整”し“10.12キム・グンテに対する証拠保全の必要性を認定できないという理由で請求棄却決定処理”するようにした。

報告書の‘処理状況’項目には、証拠保全申請を巡る動きが日付別に詳しく記録されている。10月2日“証拠保全(身体検証および鑑定)申請”が提起され、担当裁判所は10月4日“弁護人に証拠保全目的疎明要求”を行った。翌日、弁護人らは“担当裁判所に検証期日早期指定”を要求し、担当裁判所は10月8日“検証実施検討”を行った。

10月10日担当裁判所が“国立医療院から鑑定人(整形外科副科長 チョ○○)推薦回報書”を受け取ったことから見て、裁判所は証拠保全申請を受け入れる目的で国立医療院側に鑑定人推薦を依頼したものとみられる。

ところが10月11日、裁判所は突然“鑑定手続き進行延期決定および警察キム・グンテ調査記録検討”を行い、翌日の12日“証拠保全必要性不認定,棄却決定”を下した。<朝鮮日報>はキム・オス判事が“キム被告人が検察で黙秘権を行使したため、拷問有無により証拠能力を争う陳述内容はなく、証拠保全手続きに実益がない”という理由でこの申請を棄却したと報道した。安全企画部の‘強力調整’は、やはりよく組み込まれていた。

ハン・ホング聖公会大教授・韓国史

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/214/394689.html 訳J.S