保守勢力 司法府 乱打…‘公安判事制’の夢よ もう一度
原文入力:2010-02-07午後06:53:54(4576字)
※最近ハンナラ党と保守言論発‘司法改革’主張が騒がしい。連載の順序を少し変えて、現在と類似の論難が広がった90年代中盤の状況を先に扱うことにする。
運動圏出身裁判官の出現
1989年東ヨーロッパ社会主義体制の崩壊以後、運動陣営に急進的社会変革の代わりに体制内改革を追求する動きができた。学内デモや組織事件で実刑に服したり‘偽装就業’して労働現場に行った人々の中から遅れて高等試験を通過する人々も出てき始めた。ソウル大総学生会長出身で国家保安法違反で服役したイ・ジョンウが1990年外交官試験に初めて合格し、続けて高等試験3種に全て合格して話題になり、同じ年に司法試験に<旗>事件(1985.10)で実刑に服したイ・フングが初めて合格した。デモと関連して有期停学を受けた経験のある‘偽装就業者’ウォン・ヒリョンは1992年に司法試験に首席合格することもした。運動圏出身の司法試験合格者数は1993年概略20人,1996年には100人台を越し、それ以上は話題にならなかった。
運動圏出身らが初めて司法試験に合格した時でも保守言論はこれらの新しい選択を喜んだ。イ・フングの合格に対し<中央日報>は社説を通じて「過去には筆記試験に優秀な成績で合格しても、面接試験で前歴が問題になり不合格になったケースが少なくなかったという巷間の言葉を考える時、面接試験まで経た今回の最終合格が社会の変化を示唆するものではないかという期待を持たせてくれるのは事実」と喜びを表わした。
1990年代 運動圏出身 法曹界躍進
‘所信判決’‘司法府独立’動揺するや
体制守護弱化を理由に判事任用 排除
問題判事は公安事件を引き受けられないように
イ・フングは研修院を終えて1993年3月1日付でソウル地方裁判所南部支所判事に無事に任命された。そして彼の名前は2年余り後に安全企画部の報告書に登場する。<問題性向判事の刑事部職務 排除 必要>という1995年7月25日付安全企画部報告書は 「最近、ソウル地方裁判所イ・フング判事の金日成伝記販売者に対する拘束令状棄却など、問題性向判事の左翼事犯寛容措置が頻発」しているとして 「体制挑戦勢力に対する検察の対応を困難にすることはもちろん国民対共警戒心を弛緩」させることだと憂慮した。安全企画部は 「運動圏出身予備法曹人(9人)の法曹界進出時、寛容措置増加が火を見るより明らか」なので 「裁判所と協力し、問題性向の現職判事と予備法曹人らに対する刑事部職務からの排除を誘導していくことが望ましい」と強調した。
上記報告書が問題にした事件の決定文でイ・フング判事は「国民が我が国の社会体制に対して自信を持っている点などを勘案すれば、金日成の正統性を認めたり革命路線に同調する本に対して国民はむしろ批判することになるだろう」と我が国の体制に対する自信を表わした。警察はイ・フング判事により棄却された拘束令状を再び請求したが、国家保安法前歴者でないソウル地方裁判所刑事22部パク・ジェワン判事はその令状を再度棄却した。
運動圏前歴者 任用排除
安全企画部は司法研修院で研修中の9人が"刑事部職務"から排除されなければならないと主張し、身元調査を大幅に強化した。<ハンギョレ新聞>は安全企画部が任用予定者の趣味,恋人,車種,財産状況,ソウルに住む高校同窓の名前,結婚計画などを尋ねる電話をあちこちにかけ、「その人が判(検)事として資質がある人だと思うか」と聞き込みするなど「慣例を抜け出す質問」をしたと報道した。安全企画部は質問内容に抗議する志望者には「あなたがそんなに不快に思うならば、そのような態度も報告書にそのまま書いて上げる」と威圧的な態度を示した。次の日の新聞には「当局は過去にも実刑を受けた人を任用した先例はないとし、任用に否定的だと知らされた」という不吉な予測記事が載せられた。
実際に法務部は1996年2月23日、検事職を志望した研修院25期終了者の中で時局事件実刑前科のあるチョン・ナクブン,チェ・スンスと、面接の時の「この間検察は権力にへつらうなど政治指向性が多かった」と指摘したチョン・サムヒョンなど3人を任用から落とした。言論の報道によれば、これらの人々は「今回検事職を志望した終了者の中で成績が優秀な方に属するだけでなく、任用から除外されるほどの他の特別な理由がない」人々だった。これらは国家を相手に‘検事任用拒否処分取り消し訴訟’を起こしたが、1997年6月20日ソウル高裁特別9部は“理由なし”として、原告敗訴判決を下した。1996年度司法試験では示威前歴者オ・キヒョン氏が3次試験で脱落した。赦免と復権は何の意味もなかった。
1997年ソウル高裁の判決以後、大法院は公然と学生運動前歴者などの判事任用を拒否した。1998年1月5日に開かれた最高裁判事らの懇談会は「我が国社会の最後の砦である裁判所に急進的な思想は似合わず、個人の特殊な経験が公正な裁判を害する恐れがある」などの理由で、学生運動で実刑を宣告された経歴のある司法研修院生らの裁判官任用を許諾しないことを決めた。これに伴い、法院行政処は司法研修院27期生で裁判官を志望しようとする学生運動前歴者4人を呼び、「裁判所に志願しても任用しない方針」であることを通知した。以後、学生運動で執行猶予以上の刑を受けた人々が司法研修院成績と関係なく判検事任用から脱落するケースが列をなした。しかし刑に服したことがない運動圏出身をろ過する方法はなく、80年代の時代精神を大事に守った人々はとても多かった。
司法府の独立性回復に対する反発
安全企画部などが運動圏前歴のある判事らを問題にしたことは、80年代に比べ裁判所が民主化され司法府の独立性が少なくとも回復したためだ。1988年所長判事らの司法府独立要求でいわゆる2次司法波動が起きた以後、政治権力が司法府の人事や判決に介入することには相当な制約ができた。<ハンギョレ新聞>も1992年にすでに“イ・イルギュ大法院長以来、裁判と関連した圧力はなくなった”と断言した。
それにもかかわらず、政治権力は政治権力なりに、安全企画部は安全企画部なりに司法府の判決に影響を及ぼしたい欲求を放棄しなかった。ところでしばらく静かだった政治的に‘問題’がある性向の判事らに対する人事措置が復活し始めた。1996年3月の新規裁判官任用で実刑に服した示威前歴者などが脱落したのに続き“公安検事を泣かせる二人の判事”または“公安検事たちの天敵”と新聞に紹介された判事らが人事措置にあった。ユ・ウォンソク判事は1997年2月18日に突然辞表を出し、パク・シファン判事も2月末の定期人事でソウル地方裁判所刑事単独に任命され1年ぶりに異例のソウル地方裁判所民事単独に発令が出た。両判事の人事は国会で“所信のある判決と関連した偏向的,不公正人事”として問題になった。
安全企画部 絶えず影響力行使 企図
チョン・ヒョングン 公安事件専門担当裁判所 主張
最近 裁判所 掌握の動き再び露骨化
昔からの願い-公安判事制
安全企画部はこの頃“裁判所の公安判事制 新設 検討必要”という破格的な主張を出した。この報告書で安全企画部は“体制守護の一翼を担当している司法府の場合、少壮判事らの間に新世代的自由主義思考流入,運動圏出身判事任用,司法府の低年齢化などで体制守護意志が弱化”していると診断した。安全企画部は「80年代に大学に通った20~30代判事が70%」となり、令状実質審査など被疑者の人権を保護する装置が相当な水準で導入された状態で「北韓はもちろん左翼勢力らの組織,闘争戦略などに対する理解が不足」した一般刑事部に事件を任せれば「体制挑戦勢力らに随時不拘束,無罪宣告など寛大な処分」が続出すると憂慮した。その代案として安全企画部は「裁判所に既存民事,刑事,家裁のほかに別途、公安部を新設」することを提案した。「国家観が透徹し専門知識を保有する判事たちをして公安事件を専門担当」させるということだ。
←金泳三政権時期、安全企画部1次長を務めて国会議員になったチョン・ヒョングン当時新韓国党議員は1996年 「現在の裁判所は国家保安法に対する認識度が多少不十分な少壮裁判官たちが判決を下していて、左翼事犯清算に困難が台頭している」と主張した。安全企画部の司法府影響力回復企図は1997年末の政権交替で挫折したが、最近再び守旧勢力の司法府掌握の動きがうごめいている。 <ハンギョレ>資料写真
ところで裁判所に公安事件を専門担当する判事や裁判所を置こうという発想は、安全企画部のこの報告書で初めてお目見えしたものではない。1996年10月1日ソウル地方裁判所などに対する国政監査で、新韓国党議員チョン・ヒョングンは「特許,交通,選挙など専門化時代に合わせ、裁判所も専門担当裁判所を設置し医療事故,知的財産権,国際取り引き,海上事件 専門担当裁判所を設置・運営中」として「公安事件の場合、一般人が判断することはできない高度な危険性に対する判断に於いて如何なる事件にも劣らず専門性が必要だが、現在裁判所は国家保安法に対する認識度が多少不十分な少壮裁判官らが判決しており、公安事件の特殊性を認識できず一般刑事事件と同じ基準で処理しており、左翼事犯清算に困難が台頭している」と主張した。彼は続けて「したがって、その解消方案として公安事件専門担当裁判所を設置するなり単独判事ではなく合議部で裁く方案を検討する用意はないか」と尋ねた。
過去の第5共和国時期、司法府に強力な影響力を行使した安全企画部は1988年第2次司法波動以後に司法府に対する影響力を失っていった。安全企画部など保守勢力は1996年の韓総連事態などを踏み台として再び司法府に対する陰湿な影響力回復を試みた。そのような企図は安全企画部と志を同じくできる裁判官らで別に検察のように公安部を作ろうということで絶頂に達した。安全企画部はこのようにすれば配当規則を巡る是非や多くの雑音は源泉から発生しないと考えた。しかし安全企画部のこういう企図はその年末に国民が政権交替を選択することにより実現されなかった。
ハン・ホング 司法府-悔恨と汚辱の歴史
裁判所を掌握しようとする守旧勢力のその昔からの願いが、今またうごめいている。20代青年時代、進歩党事件無罪判決に不満を抱き裁判所に乱入したその部類の人々は今はもう70~80代年配‘ヨンパリ’になって気に入らない判事の家の前でデモをする。民主主義の後退はどこまでだろうか? 80年代だろうか? 50年代だろうか? 歴史の退行を持たらす保守の蛮勇を阻んで立つ保守はどこにいるのか…。
ハン・ホング聖公会大教授・韓国史