本文に移動

日帝強制占領期の痕跡が残る釜山埋築地マウル

登録:2018-04-10 23:49 修正:2018-04-11 07:36
日本軍が使った馬厩舎や保管倉庫が残存…釜山強制動員の現場 
市民団体、来月1日に日本総領事館前に 
強制徴用労働者像建立計画…釜山市は反対
釜山東区凡一洞の埋築地マウル路地=キム・ヨンドン記者//ハンギョレ新聞社

 10日、釜山市東区凡一洞(ポミルドン)の埋築地村(メチュクチマウル)はひっそりしていた。住民の姿もほとんど見当たらなかった。1~2階建ての家々が密集していて、その間の狭い路地には白く燃え尽きた煉炭のカスがあちこちに見えた。食堂や美容室など、ほとんどの店は門が閉まった状態だった。長く延びた塀に描かれた壁画だけが目についた。

 狭く長い路地に沿って進むと、日帝強制占領期に作られた馬厩舎が残っている。この村は、日帝強制占領期である1930年代に作られたが、当時釜山港の埠頭に降り立った馬子と馬、運び屋が休んだ所だった。朝鮮戦争の時は、避難民が集まって暮らした貧しい村だった。避難民たちは、馬厩舎を一間ごとに分け合って暮らしたという。

 この村は、1990年代に都市環境整備事業推進区域に指定され、再開発が推進されたが立ち消えになった。現在1000軒あまりのうち約300軒が空き家・廃屋になっている。埋築地マウルの隣には在韓米軍55補給廠がある。日帝強制占領期に釜山港に入ってきた日本軍の軍需物資を保管した倉庫だった。解放以後、在韓米軍がそのまま使っている。この村は釜山で日帝強制動員の痕跡が残っている数少ない所だ。

 日帝強制動員被害者支援財団が出した『強制動員の歴史と現場』によれば、日帝は1937年に中日戦争を起こした後、戦争物資が不足すると国家総動員法を作り、45年に崩壊するまで朝鮮などすべての植民地の人的・物的資源を総動員した。資料が不足していて当時強制動員された朝鮮人被害者の数は正確に把握できない。日本の市民団体である「朝鮮人強制連行真相調査団」は、1990年に内務省警保局資料に載せられた統計から算出した結果、1939~45年の強制連行者数が151万人あまりと把握されると明らかにした。韓国国内の学界も150~780万人余りと推算している。

 強制動員された朝鮮人は、日本など国外のみならず韓国国内にも配置された。釜山港は日本と大陸を連結する最も近い輸送港だ。日帝は軍需輸送のために埠頭を建設するなど基盤施設を拡充して釜山港を拡大し、40年代に日帝陸軍の軍需基地にした。その過程で多くの朝鮮人が釜山に強制動員された。埋築地マウルも釜山港に近い海を埋め立てて生まれた。だが、釜山の強制動員労働者現況記録は資料がほとんどなく、その実態さえ把握が難しい。2004年から2015年まで活動した「日帝強制占領下強制動員被害真相究明委員会」に申告された資料のうち、「慶南地域基礎資料」の実務委員審議資料で釜山地域への朝鮮人強制動員事例を確認できる程度だ。

 朝鮮人強制徴用の歴史を記憶するために、釜山の多くの市民・労働団体が集まって作った「積弊清算・社会大改革釜山運動本部」は、メーデーである来月1日に東区草梁洞(チョリャンドン)の日本総領事館前の平和の少女像の隣に強制徴用労働者像の建設を推進している。市民の呼応も熱い。すでに6日に労働者像建設募金額が目標の8000万ウォン(約800万円)を超えた。

 だが、釜山市などは韓日関係のためにここに労働者像を設置することに対し否定的な態度を見せている。釜山市は最近、市民団体との面談で「南区の日帝強制動員歴史館側に設置すること」を提案したが、市民団体は拒否した。

 ある市民団体関係者は「日本は依然として朝鮮人強制徴用の歴史を認めようとしない。民族の歴史を正しく立て直すには、労働者像を日本総領事館前に建てなければならない。日本政府の責任ある謝罪があるまで戦い続ける」と話した。

釜山東区凡一洞の埋築地マウルに残っている馬厩舎。日帝強制占領期に作られた=キム・ヨンドン記者//ハンギョレ新聞社
キム・ヨンドン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/839939.html韓国語原文入力:2018-04-10 15:50
訳J.S

関連記事