韓国戦争時、西部戦線の激戦地であった京畿(キョンギ)漣川郡(ヨンチョングン)中面馬巨里に国連軍が作って使った‘国連軍火葬場’が53年の停戦後60年間にわたり放置されており激しく毀損されていることが明らかになった。 休戦ラインと隣接た民間人出入り統制地域(民統線)内の国連軍火葬場が外部に公開されたのは今回が初めてだ。
18日<ハンギョレ>が確認した漣川(ヨンチョン)馬巨里火葬場は建物が全て流失し茂った雑草の間に煙突2本だけがぽつんと残っていた。 煙突の1本は煙突中に木が生えておりまもなく崩れそうな危険な状態に見えた。 2本の煙突(高さ360㎝、310㎝)は38mの間隔をあけて互いに離れて立っており、川から拾ってきた石とセメントを利用して台形に積まれている。
現場を案内した漣川地域の郷土史学者イ・ビョンジュ(57)氏は「馬巨里火葬場は韓国戦争史の大変重要な遺跡」として、火葬場を文化財として保存しなければならないと話した。
軍事文化財の専門家と現地住民たちの説明を総合すれば、韓国戦争当時に国連軍は激しい高地争奪戦が展開された漣川一帯で犠牲になった遺体を処理するために火葬場2ヶ所を作って運営したとのことだ。 この内、後日(1952年)に造成され戦争以後まで使われた嵋山面(ミサンミョン)東裡里(トンイリ)の国連軍火葬場施設は2008年10月文化財庁の登録文化財408号に指定され保存されている。 だが、1951年最前方地域に先に作られた中面馬巨里火葬場は文化財庁はもちろん京畿道と漣川郡が実態把握さえ出来ずにいる実情だ。
専門家たちは国連軍が1951年馬巨里火葬場だけを運営して犠牲者が大量に発生して処理施設が不足すると伝染病などを憂慮して嵋山面、東裡里に火葬場を追加設置したと推定した。
漣川地域では1950年7月から1951年10月までの1年余りの間に中国軍2万1500人余りと国連軍4000人余りなど計2万5500人余りの死傷者が発生したという。
国防部軍事編纂研究所ヤン・ヨンジョ(53)博士は「6・25韓国動乱(韓国戦争)当時、火葬場施設としては休戦ライン全地域をあわせて2ヶ所だけが残っている重要な遺跡なのに、無関心の中で放置されており残念だ。 特に馬巨里火葬場は戦闘現場に先に作られたもので、すでに文化財に指定されている東裡里火葬場よりはるかに意味があり重要だ」と話した。
戦争当時、火葬場の使用を目撃したイ・ホスン(75)前漣川文化院郷土研究所長は「馬巨里火葬場は民統線内地域であり民間人出入りが容易ではない上に外につながりがない所にあるため、それでもなくならずにこの程度でも残ったようだ」と話した。
これに対してユン・ミスク漣川郡学芸士は 「漣川の民統線地域が広く、2007年に文化財全数調査の時に脱落したようだ。 早い時期に現場調査を実施して文化財として価値があると判断されれば文化財庁に登録を申請し保存方案を講じる」と話した。
漣川/文・写真 パク・ギョンマン記者 mania@hani.co.kr