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"未だにキム・グンテ兄の恐ろしい悲鳴が聞こえる"

原文入力:2012/01/03 16:35(3017字)
クォン・オソン記者

 ムン・ヨンシク民主党インターネット疎通委員長、水拷問された南営洞(ナミョンドン)対共分室を訪ね、七星板に全身を縛られ三日間あらゆる苦痛を加え、一言訊く "キム・グンテ、知っているだろう?"

←民主化闘争に捧げた生涯  キム・グンテ民主統合党常任顧問の生涯はこの地の民主化のための闘争と試練の連続だった。 大学時期に民主化運動に立ち上がった彼は以後、除籍と強制徴集、拘束と投獄が繰り返される苦難の道を歩いた。 だが、彼は常に楽観と希望を失わなかった。 写真は1990年7月20日、当時 全国民族民主運動連合執行委員長だった彼が国家保安法違反容疑で1次公判を受けるために法廷に入っている場面だ。 ‘ハンギョレ’資料写真

 ムン・ヨンシク民主党インターネット疎通委員長の顔が僅かに震えた。 おぞましい拷問の記憶も淡々と打ち明けた彼も 「グンテ兄の悲鳴」を聞いた瞬間に関する質問には簡単に話を始められなかった。

 去る2日の遅い午後、パク・ギョンソ警察庁初代人権委員長をはじめとする1期警察庁人員委委員らとオ・チャンイク人権連帯事務局長、ムン委員長らがソウル、南営洞対共分室(現警察庁人権保護センター)を訪ね、故キム・グンテ民主統合党常任顧問の追悼式を行った。 当時キム顧問が水拷問、電気拷問にあった515号室の前には警察庁人権センターが彼を賛えて持って行った白い菊の花かごが小さなテーブルの上に置かれている。

 515号室は他の拷問室と同じようにきれいに手が加えられ当時の痕跡は探し難い。5階の15室ある拷問室の中でパク・ジョンチョル烈士が拷問にあった509号だけが当時の姿を保存している。 左側の取り調べ用スチール机と椅子、右側の古い1人用木製ベッドが毛布で覆われて部屋を満たしている。

←故パク・ジョンチョル氏が水拷問を受けて亡くなった南営洞対共分室(現警察庁人権保護センター) 509号. ‘ハニTV’映像キャプチャー

 向い側の端には便器と洗面台、そしてパク・ジョンチョルの命を奪い取った水拷問用浴槽が醜悪な人権蹂躪の歴史を証言している。 今は明るい火が灯されているが手の平六寸大の窓は部屋を明るくするよりは陰気にさせる役割に止まっただろう。

 しかし515号は恥ずかしい歴史を隠すためなのか、すべての什器を片づけ洗面台もきれいに工事した後に仕切りで隠されていた。ただ床に固定された机と椅子のクギの跡と天井の一方にCCTVが内部に設置されていたという黒い鏡だけが当時の姿を思わせるだけだった。

 ムン委員長は当時受けた拷問を生々しく記憶していた。 「1985年8月29日ソウル大学生の運動組織である‘民推委(民主化推進委員会)’の闘争文書‘旗’事件でここに連れられてきました。 キム・グンテ兄に先立って私がここ(515号)で拷問にあいました。」 部屋で待っていた10人余りの拷問捜査官がいきなりムン委員長を殴った後、半死状態で裸にされたという。

 その後に彼を待っていたのは三日間昼夜別なけ続いた水拷問だった。 「七星板(チルソンパン)が持ち込まれました。その上に横にして胸、腰、膝、足首などをベルトで縛り、指、足の指を除いては何も動かせないようにしました。 タオルで顔を覆うと、彼らの表現によれば‘さあ工事ちょっとやってみよう’と言ったのです。」 ヤカンからタオルで覆われた鼻の上に水が注がれました。微動だにできず、鼻から入ってくる水をそのまま飲みました。 水拷問は疲れきれば止んで、持続的に繰り返された。「やられた人だけが知りえる苦痛です。‘関節はずし’、‘ボールペン尋問’も比べものになりません。」

 拷問には何の理由もなかった。 「死ぬかもしれないという恐怖を与えることが目的のように見えました。 その状態で話にならない質問をします。 ‘北韓へいつ行ってきたのか?’、‘労働党に加入しただろう?’などでしょう。 いっそのこと答えられる質問をすれば答えても抜け出したいという気になった時に本質問をしたのです。 ‘キム・グンテ知ってるだろう?’顔を何度か見ただけだが、知っていることは知っているので、知っていると言いましたよ。 私からその返事を勝ち取ると、すぐに捕らえるのです。」 捜査官は 「VIP来る」として、515号を空けてムン委員長を向かい側の514号に移した。 拷問室の中で最も大きかった515号は彼らにとってVIPルームだった。

 キム顧問は9月4日に対共分室に連れられてきた。 当時、拷問を受けているキム顧問に関して持った思いを尋ねるとムン委員長はしばらく閉ざした。 かすれた声でようやく「ぞっとします」として再び口を開いた。「もしかしたら私のせいで連れてこられた兄さんを考えれば何と表現できますか。 道端の自動車の音、南営(ナミョン)駅の汽車の音が止む明け方になれば(キム顧問の)うめき声が聞こえてきます。 そうするうちに高く鋭い悲鳴が聞こえます。 そしてその声がますます大きくなるのです。」 キム顧問はムン委員長が受けた苦痛に加えて、拷問技術者イ・クンアンの残忍で悪らつな拷問にまで耐えなければならなかった。

←ムン・ヨンシク民主統合党インターネット疎通委員長が自身と故キム・グンテ常任顧問が拷問にあったソウル、南営洞対共分室515号室で当時の経験を話している。 ‘ハニTV’映像キャプチャー

 ムン代表がはじめてキム顧問に会ったのは10月中旬に検察調査へ渡された後であった。「当時は拘置所から徳寿宮(トクスグン)近隣の以前の検察庁舎につながる地下通路がありました。 そこで検察調査を受けに行ってきながら、互いにすれ違いましたよ。 私はその時やっと‘ムン・ヨンシクです’一言声をかけることができただけでした。 グンテ兄は何も言うことはできない状況でした。 憔悴、疲弊という表現だけでは足りず、言葉では言いようもありませんでした。1988年はじめて外に出てきて話すことができるようになったが、兄さんは反対に‘ご苦労さん’と言って私を慰めてくれました。”

 この日の追悼式に参加した人権委員は故人の意向を賛える追慕記念館の設置を提案した。 パク・スンヒ前警察庁人権委員会副委員長は「キム・グンテ議長は途方もない拷問にもかかわらず、暖かくきれいな人だった」として「パク・ジョンチョル烈士を追慕する509号を保存したように、記念館を作って彼の意を忘ないようにしよう」と話した。

 一方、この日の追悼式には70年代中盤に出版され労働活動家の必読書のように読まれた<ある石ころの叫び>を書いた労働者ユ・ドンウ氏も共にした。 ユ氏もやはり1981年‘全国民主労働者連盟’の中央委員として活動し、南営洞に連れてこられ一ヶ月ほど拷問を受けた経験がある。 彼は「グンテ兄さんが一度私の家に訪ねてきて、拷問の経験を話し合ったことが思い出される」として涙を流した。

クォン・オソン記者 sage5th@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/513161.html 訳J.S