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自民党と公明党の決別の意味【コラム】

登録:2025-10-21 09:26 修正:2025-10-21 09:48
公明党の斉藤鉄夫代表(左)が2025年10月10日午後、日本の東京国会で高市早苗自民党総裁と会談している/AFP聯合ニュース

 1998年7月30日、小渕恵三自民党総裁が日本の首相に就任した。同月の参議院選挙で自民党が過半数に及ばず惨敗し、橋本龍太郎内閣が総辞職した危機的状況だった。小渕自民党体制時代、自民党はすでに単独で政権を維持することが難しい状態だった。社会党、新党きがけとの連立実験は失敗に終わった後だった。代案として浮上した政党が公明党だった。野中広務官房長官(当時)は公明党と連立のために動いたが、公明党は最初、連立に慎重な態度を示したという。「平和と福祉の政党」を掲げる公明党の政治色は、1955年に保守大連合で誕生した保守政党である自民党とはかけ離れていた。むしろリベラルとされる旧民主党に近いとみられていた。公明党は結局、迂回路として小沢一郎が創党した自由党と連立を1999年1月に始めた後、同年10月に自民・自由連立に加わった。一種のクッションの役割を果たしていた自由党は2000年に連立から離脱したが、政治色の異なる自民党と公明党の連立は26年間続いた。自民党が旧民主党に政権を明け渡し、野党になった2009年から2012年の時期にも連合を維持した。

 両政党が連立を四半世紀以上維持できた背景には、選挙戦略における相互補完の効果が高い点が大きかった。宗教団体である創価学会を母胎とする公明党の組織票は、小選挙区に立候補した自民党候補の当選に大きな力となった。公明党も当選が有力な少数の選挙区に絞って候補を出し、自民党と競争せず、立候補した選挙区でほとんどが当選を果たしてきた。公明党は、自党候補が立候補しない選挙区で自民党候補を支援する見返りに、比例代表は公明党に投票してほしいと呼びかける選挙戦略も展開した。

 もちろん、自公連立が長く続いたのは選挙協力のためだけではなかった。両党間の比較的政策協議も円滑に行われており、公明党が自民党の過度な右傾化に一定のブレーキをかけると、自民党もこれを反映した。

 しかし、四半世紀以上続いた自公連合は10日、公明党の斉藤鉄夫代表が高市早苗自民党新総裁との会談で、連立解消を宣言したことで幕を閉じた。公明党は、自民党派閥の政治資金問題による影響で衆議院と参議院選挙で議席が大幅に減り、危機感が大きかった。公明党は自民党に派閥秘密資金改革のための企業・団体政治資金規制を強く要求したが、自民党がこれを受け入れなかったことを受け、別れを告げた。

 自民党と公明党が決別した最大の原因は自民党派閥の政治資金問題だが、両政党の政策的な違いが限界に達した点もあるという分析もある。斉藤公明党代表は、高市新総裁に自民党派閥の政治資金問題とともに、太平洋戦争のA級戦犯が合祀された靖国神社参拝などの歴史認識の問題、排外主義に対する懸念を伝えたという。

 高市新総裁は自民党総裁選の演説会で、奈良公園のシカを外国人観光客が虐待するという排外主義を助長する主張を展開した。「日本人の気持ちを踏みにじって喜ぶ人が外国から来るなら、何かをしないといけない」と主張したが、根拠は示さなかった。2002年の放送で「満州事変以降の戦争は、日本にとって自存自衛の戦争だったと思うか」という質問に「セキュリティ(安保)のための戦争だったと思う」と発言した高市総裁は、もともと右派色が強かったが、自民党総裁が露骨な排外主義的発言で票を集めようとしたのは異例のことだ。

 高市自民党体制は、公明党との離別後、関西地方に基盤を置く保守野党の日本維新の会と連立に合意し、政権は維持するものとみられる。高市総裁による保守色の野党糾合は、日本維新の会にとどまらない。最近極右政党である参政党の神谷宗幣代表と会談し、国会の首相指名選挙で自身に投票するよう要請し、参政党と自民党の政策が「近い」と話したと、神谷代表が16日に明らかにした。

 自民党と公明党の別れは、保守政党である自民党に一定に存在した中道的調整装置が外れた時代が始まったことを象徴的に示している。高市政権の発足で、韓国は日本のこの新たな姿に向き合わなければならない課題を抱えることになった。

//ハンギョレ新聞社
チョ・ギウォン|国際部長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1224420.html韓国語原文入力:2025-10-2018:38
訳H.J

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