李承晩(イ・スンマン)といえば、多くの人が独裁者を思い浮かべる。だが少し前から、ニューライトを中心に、大韓民国の基礎を築いた「建国の父」李承晩を強調する動きが見られる。最近は尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権がこれに加勢している。ついにはソウル市のオ・セフン市長が鍾路区(チョンノグ)の「開かれた松ヒョン(ソンヒョン)広場」に李承晩記念館を建てるというとんでもない話を持ち出すに至っている。
李承晩の歴史的評価はすでに定まっている。李承晩は大韓民国臨時政府の大統領と大韓民国の大統領の座から二度も追われた。これ以上どんな評価が必要だというのか。たとえ小さな功があったとしても、それ以上に罪が大きい。李承晩に功があるとすれば、それは一部の人々の強弁する「建国の父」に自身が決してなりえないことを自ら認めたことかもしれない。
1948年5月10日の選挙で成立した制憲国会で、李承晩は初代国会議長に選出された。李承晩は5月31日の制憲国会の開会の辞で「大韓独立民主政府の再建設」を力説した。大韓独立民主政府は、言い換えれば民国、すなわち大韓民国である。改めて李承晩の言葉を引用すると、「29年ぶりの民国の復活の日であることを我々はここに公布し、民国の年号は己未年(1919年)から起算」すべきだというのだ。
憲法を制定する際、国の名前を何にするかという問題をめぐって論争が起きたが、1919年にすでに発足している大韓民国を継承し、国の名前として使い続けようという結論が出た。その結果、制憲憲法の前文に「我々大韓民国は己未の3・1運動で大韓民国を建設し、世界に宣布した偉大な独立精神を継承し、今や民主独立国家を再建」するという一節が入った。これは、独立運動の過程ですでに大韓民国は建設されており、制憲憲法による政府の発足は大韓民国の再建だということを意味する。
1948年8月15日の政府樹立祝賀式の記念演説で、李承晩は「大韓民国30年」という年号を用いた。続いて9月1日に出た初の大韓民国官報にも「大韓民国30年」が記されている。大韓民国は1948年8月15日の政府樹立によって建設されたものではないということを、李承晩政権自らが明確に示したのだ。その後の数回の改憲を経て、憲法前文は変更された。現行憲法の前文には「我々大韓国民は3・1運動で建設された大韓民国臨時政府の法統」を継承しているという一節がある。
にもかかわらず、李承晩を称揚しようとしている人々は、1948年8月15日の政府発足がすなわち大韓民国の建国だと強弁する。憲法を否定するものであり、1919年に大韓民国が建設されたと主張した李承晩の唯一の功さえも否定するものだ。李承晩は「建国の父」だと言い張る人々は、「建国節」制定をごり押ししてきた。だが、政府が樹立された日がすなわち国の建設された日だと考える国はほとんどない。
漢字文化圏において「建国」という名の国の記念日を持つ国は日本だけだ。ただし日本は、神話に出てくる初代天皇が即位した日を1873年に紀元節と定め、1966年からは「建国記念の日」として記念している。日本でさえ、「建国節」を主張する連中のように近代政府の発足日を記念してはいない。韓国の開天節に当たる日を建国の起点としているのだ。中国は1949年に中華人民共和国の発足を宣言した日を国慶節として、台湾は1911年に武昌起義の起きた日を双十節として、それぞれ記念している。北朝鮮は1948年に朝鮮民主主義人民共和国を宣布した日を人民政権創建日として、ベトナムは1945年にホーチミンが独立を宣言した日を国慶日として、それぞれ記念している。
地球上に存在するほとんどの国が記念する日は、韓国の3・1節や光復節に当たる独立記念日だ。特に帝国主義の植民地支配を受けた国は、どこも独立記念日を自らのルーツとして記念している。米国も独立記念日を記念している。7月4日を米国の建国日だと考える米国人はいない。
ニューライトをはじめとする極右勢力が無理に「建国節」を推し進めるのには理由がある。それは親日と独裁の歴史の洗浄だ。「建国節」制定を通じて独立運動家を大韓民国から切り離し、その座に親日派とその後裔(こうえい)である独裁政権に加担した勢力を据え、あたかも親日と独裁が大韓民国の正統であるかのようにしようという黒い本音が、「1948年建国」主張には込められている。だから「建国節」を何度も蒸し返しているのであり、その一環として「建国の父」李承晩を称揚しているのだ。
イ・ジュンシク|元独立記念館館長 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )